2024年 01月 07日
幻の珠洲原発は世界最大の原発集中立地計画だった
「能登半島地震による原発事故」を食い止めたのは
原発反対派の歴史の積み重ね
小坂正則
樫田準一郎さん(元小学校校長)22年6月12日に91歳で死去
志賀原発の直下に走る活断層の図
みなさんも驚いたでしょうが、2024年の元旦早々の能登半島地震による大震災で、石川県を中心に多くの犠牲者や怪我人が出ていますが、1月6日現在、100名を超える犠牲者と行方不明者も100人以上います。1日も早く発見できることを祈っています。
この能登半島地震では多くの犠牲者が出ましたが、私は原発事故が起きなかったことは不幸中の幸いだと胸を撫で下ろしています。2011年3.11では福島原発事故で多くの原発関連死者が出ましたが、福島原発2号機の原子炉爆発の危機と4号機の使用済み核燃料のメルトダウンが偶然、奇跡的に防げたことで東日本が死の街にならずに済みました。
福島原発事故は偶然にも奇跡的に日本列島の半分以上が死の街にならずに済んだのです。今年の能登半島地震を私たちは防ぐことはできませんが、能登半島にある志賀原発は止まっていたため、事故の一歩手前まで行った可能性はありますが、大事故に至りませんでした。
今回の震度7の地震の震源地は珠洲市ですが、そこには100万㎾級の原発が、北陸電力と関西電力と中部電力による3社共同で少なくとも5機以上の原発を建設する予定だったのです。しかし、現地の住民や労組や社会党・共産党に公明党や全国の市民の力で建設を阻止できたから、原発事故は起きませんでした。原発建設に反対して50年間もの長い間、地元住民や良識ある裁判長や私たち反原発の市民のたたかいの積み重ねで阻止したのです。もし、震源地の真上に珠洲原発の建設を許していたら、関西から関東は元より北は北海道、南は九州まで日本列島の大半を覆いつくすほどの放射能がバラまかれたかもしれないのです。
珠洲原発は世界最大の原発立地計画だった
私は能登半島地震と志賀原発と幻の珠洲原発の歴史を「つゆくさ通信」の記事に書こうと思って文献を調べていて、びっくりしたのです。なぜなら、能登半島の先端の珠洲市に珠洲原発の建設計画が1975年10月30日に珠洲市議会の全員協議会において、原子力施設設置適地可否調査の要望を決議したことから珠洲原発の歴史は始まりました。翌1976年1月13日 、関西電力・芦原義重会長が、「珠洲市に100万kWの原発を5機を関西電力、北陸電力、中部両電力の3社共同で建設する」と発表しました。会長は「1000万㎾の世界最大の集中立地」と言ったそうです。つまり幻の志賀原発が能登半島の先端に5~10機も建っていて、その直下で今回の地震が直撃していたら、絶対に原発大事故が起きていたのです。それを幻の原発として葬り去った人々の労苦を振り返ってみることにします。
13年間動いてない志賀原発は廃炉へ
その前に志賀原発の歴史を振り返ってみます。1967年7月に北陸電力が能登原発の候補地4地点を公表。70年に志賀町に決定。1993年7月に稼働。運転6年目の1999年に1号機で定期検査時に誤って制御棒3本を引抜いて、核燃料 が臨界するという大事故を起こしたが、2007年3月まで隠蔽し続けたのです。北陸電力の隠蔽体質が住民の信頼を失墜させて、原発反対の空気を醸成したことでしょう。
能登原発2号機(志賀原発)建設が始まる1999年と同時に「運転差し止め訴訟」を16都道府県の住民が提訴し、2006年金沢地裁で判決が下り、「運転差し止め提訴の原告勝訴」の判決を井戸謙一裁判長が出しました。(井戸謙一裁判長は伊方原発裁判の弁護団の1人で、日本で最初に原発運転差し止め判決を下した裁判長です)
このような井戸裁判長の力も建設を阻止する力として醸成したことでしょう。
志賀原発1号と2号の原子炉直下には活断層が走っています。写真は蜘蛛の巣のような線が活断層です。 2012年7月、原子力安全・保安院の専門家会議において、発電所敷地内に活断層があると指摘。2016年、原子力規制委員会は有識者会合で1号機原子炉建屋直下の断層について「活断層と解釈するのが合理的」とした報告を行う。この報告書がくつがえらなければ1号機は廃炉になる予定だったが、2023年3月、規制委員会は有識者会合の決定を覆して、有識者の意見に従う必要はないとして、運転を認める方向で現在まで進んで来ました。
これは岸田政権の介入によるものです。だから岸田首相は今年の年頭会見では、一言も志賀原発による地震被害には触れなかったのです。北陸電力と政府は「志賀原発は地震の影響はなかった」と当初は発表していました。しかし、2系統の外部電源の内50万㎾が遮断して、25万㎾の送電線が辛うじて繋がっていることや、変圧器の絶縁用油が約3.5トンの漏れがあったとの報告が、実際には20トンも漏れており、この油は可燃性の危険物で一歩間違えば大火災となっていたとところです。また3mを超える津波が防潮堤を襲い、防潮堤が傾くような被害も隠していた可能性があります。
志賀原発は2号機が2011年1月に事故で停止。1号機は2月に事故で停止した後、福島原発事故により、2つの原発は13年間も止まったままです。今回の地震で震度7の直下型地震が直撃しても原子炉が止まっていために大事故に至らなかった可能性があります。もし動いていたら変圧器の油に何らかの炎が引火して大事故になっていたかもしれません。これからは能登半島地震で志賀原発が大きな被害を受けたことにより、廃炉を要求する声が全国で広がり簡単に再稼働はできないでしょう。
幻の珠洲原発となった反対派の戦いの歴史
北陸電力が原発建設候補地を調査すると発表した1975年7月の3カ月後に珠洲市議会は原子力設置調査の要望を決議する。そして翌年の1976年1月年頭に、関西電力の芦原義重会長が、珠洲市に1000万kW級の大規模な集中立地の原発を関西電力、北陸電力、中部電力との3社共同で建設することを検討中と発表した。この計画が実現していたら、珠洲市内に100万㎾の原発が少なくとも5機は建設されていた可能性があったのです。
同年に通産省資源エネルギー庁が原発の地質調査を開始。翌1977年3月、資源エネルギー庁は、黒瀬珠洲市長に対し、同市2個所で行った立地地質調査について、「地盤が固く、原発立地に適しているい」と伝える。75年に議会が誘致決議を挙げて、関電が原発建設計画を発表して、国が調査して敵地と決めるのに、僅か2年という猛スピードで建設計画は進んでいったのです。
1979年3月に米国スリーマイル島にてメルトダウンによる放射能汚染の原発事故が起きる。そこで原発の危険性が現地の住民の間に伝わっていく。
そして翌1980年4月、珠洲原発の反対運動「珠洲原子力発電所建設反対同盟」と能登(志賀)原発の反対運動などとの共催で「原発を許さない県民の集い」を開催。
1986年ソ連のチェルノブイリ原発事故が起きて全国で反原発運動の火が燃え広がる。
1989年5月に関西電力が珠洲市高屋地区で、立地可能性調査に着手するが、建設反対派による実力阻止行動や珠洲市役所での座り込みにより、同年6月に調査を一時見合わせることを決定。
1993年4月の珠洲市長選で原発推進派の現職・林幹人と反対派の樫田準一郎(元小学校校長)が立候補して、推進派と反対派の一騎打ちの市長選が行われたが、この選挙の開票場で推進派による不正が行われて、投票用紙が16票多いという前代見ものの選挙となった。反対派は開票所でポケットから投票用紙を加えるところをビデオを撮っていて、石川選管に審査請求を求めるが却下されたが、名古屋高裁と最高裁で勝訴。1996年7月、やり直しの市長選挙が行われる。前市長は立候補せず後継推進派と前回の樫田準一郎氏の一騎打ちとなり、約9300票と7500票と前回より票差は縮まったが、関西電力は社員を動員して選挙介入を行う。投票翌日に助役が特別公務員による地位利用の事前運動容疑で逮捕・起訴される。市役所は総出でなりふり構わず推進派の選挙違反を行ったのです。
2006年泉谷市長の誕生で原発計画は白紙へ
関西電力は、長引く不況や原発建設のコスト高などに、人口減少や製造業の海外シフト等、による電力需要低迷などの理由と、電力自由化の進展により、厳しい経営環境が予想されるといて「一時建設計画は凍結する」と発表しました。
2006年、「一時凍結はいつ解凍するかもしれない」と、原発反対派の泉谷満寿裕氏が珠洲市長選へ立候補し、初当選の快挙を実現した。これまで推進派に一度も勝ったことがなかった反対派が推進派を破って勝利したのです。珠洲市有権者の過半数を超える民意のもとで「原発設NO」が確立されたのです。これで「珠洲には原発は建てさせない」ということが決まり、珠洲原発は幻となって関電も完全に撤退したのです。
先人の歴史の積み重ねで私たちは生き延びる
1975年の原発誘致決議から2006年まで31年間に及ぶ長い戦いの結果、2024年の能登半島地震の際に、幻の珠洲原発は当然核暴走しませんし、放射能が日本列島にばら撒かれることもありませんでした。
1970年の大阪万博に間に合うように建設された敦賀原発1号機です。それから2011年の福島原発事故まで、52機の原発が稼働しましたが、その裏には珠洲原発を阻止した珠洲市のようなに、50個所以上の地方で原発建設を阻止した住民の戦いがあったのです。
九州には佐賀県に玄海原発と鹿児島に川内原発が稼働してます。九州北部と九州西南部です。そこで九電は何としても東九州に原発を建設しようと試みるのです。宮崎県串間市に九電は立地調査所まで作って、本格的な建設を推進しました。その動きと並行して、大分県蒲江町には2度に渡って、「蒲江町に原発立地か」という読売新聞による観測記事が書かれたことがありました。実際には蒲江町に九電から立地調査の打診はなかったと当時の町長は話していましたから、事実としてなかったのかもしれません。串間への揺さぶりのためのニセ記事だったのかもしれませんが、2度目の観測記事に対しては、私たち大分の市民運動と現地の漁協青年部や社会党や労働組合などの協力の元、小出裕章京大助教による反対学習会などを行って、1994年3月には蒲江町議会による「原発受け入れ拒否決議」を挙げてもらいました。小出さんの学習会には町長も参加していました。
1986年のチェルノブイリ原発事故が起きて、世界中に放射能がばら撒かれました。8000キロ離れた日本にも大量の放射能が降り注ぎました。
また、2011年には福島原発事故の放射能は福島周辺は元より日本列島にばら撒かれました。しかし8割方は太平洋に降り注ぎました。この放射能は太平洋の海を汚染して、昨年から海洋放出している汚染水はこれから何十年と汚染を続けます。過去の事故による放射能を消すことは不可能ですが、未来は変えられます。先人たちが築いてきてくれた努力の積み重ねの労苦を私たちが引き継ぎ、次世代に貴重な日本のふるさとや地球環境引き渡す責任があるのです。
これから南海トラフ地震は必ず襲って来ますし、中央構造線は2016年の熊本地震で湯布院までの活断層は動いたのですから、大分・別府から四国に繋がる活断層は動きます。 伊方原発を廃炉にできるのが先か地震が先かは分かりませんが、日本に残って、まだ動き続けている原発を1つずつ止める。そして燃料棒を抜き取り廃炉にする戦いを進めなければなりません。御用裁判官は政府に忖度して「規制庁や専門家が認めているから地震は起きないと考えられる」や「伊方原発には耐震基準を超える揺れは起きないと専門家が言うのだから間違いない」などという無責任で宗教でも信じろというような「安全神話」をただ信じろと強制するようないい加減な判決を出し続けるのでしょう。
ないことは証明不可能
「悪魔の証明」という説があります。
悪魔の証明とは「○○がないことを証明できないなら、○○は存在する」「△△であることを証明できないなら、△△だ」といった、「ない」ということを証明しようとする論法のことを指します。 未知証明と呼ばれることもあります。 「ある」ということを証明するのであれば、実際に事例を紹介すれば事足ります。(グロービス出版より参照)
ないことを証明することは非常に難しいという理論です。統計学などで地震が起きる確率などは歴史的な事実である程度は科学的に証明可能です。しかし、化学は万能ではありません。近代的な地震学はまだ100年くらいしか経っていません。特にプレート型の地震学理論はまだ50年そこそこの理論です。今日の日本の地震は多かれ少なかれプレートが動くことが大きく影響する地震です。1990年前後に京大の荻野晃也さんをお招きして電磁波の学習会を行ったことがあります。荻野さんは原子力の学者ですが、そのころ彼は電磁波の講演会を行っていましたので、交流会で地震の話になったら、「プレートテクトニクスという理論は僅か20年そこそこで普及した理論だから、初期の原発はプレート型地震や津波対策などやってないんだ」と話していました。「福島原発や女川原発はプレートが動けば津波で一発で壊れる」と話していた記憶があります。福島原発は30メートルの大地を20メートル掘削して、津波に襲ってくださいといわんばかりに掘り下げて建設したのです。1974年に認可。75年に建設。82年から運転開始です。だからその頃はプレート型の地震説は少数派だったのです。
科学は万能ではない
科学は万能だと信じている方がいると思いますが、科学は万能ではありません。特に地震学などはまだヨチヨチ歩きのヒヨコのようなものです。地震学の知見はパーセントで表せば1%位しか分かっていないのだと思います。残りの99%は未知の学問です。
そんな地震学者が、しかも電力会社の雇われ学者は、皆さん御用学者ですから、お金のためならお尻の穴まで舐めるような、「地位亡者」か「金亡者」が大半でしょう。そんな「学者」や「専門家」が「ここでは巨大な地震は起きません」と言っても信用できません。 そこで巨大地震が起きたら、彼らは必ずこう言いうでしょう。「この地震は想定外の地震です」と言って逃げるのです。福島原発事故も御用学者はそう言ってみなさん逃げました。
実際には「強震動予測」という計算式があります。1番有名な計算式は「入倉・三宅式」というものです。この予測式は活断層の長さや縦の幅などから、その原発の周辺にある活断層から、もし周辺の活断層が動いたらどれだけの地震が起きる可能性があるかを予測するものです。それを予測するにはこれまでに起きた地震を近代的な地震計で測定したモデルから、パラメーター(変数とか係数)を求め、その係数を「入倉・三宅式」に当てはめて、その敷地で起きる最大の地震動を予測するものです。
しかし、問題はそこに当てはめるモデルの地震が戦後最新の地震計で測定された加速度(カイン・ガル)を当てはめて、そこで動いた活断層の長さや幅を測定してモデルにした係数なのですが、それが僅か20数例しかないのだそうです。モデルの地震が千件や万件もあれば地震のモデルとして少しは信用できるかもしれませんが、そんなに少ないなら、それを超える地震が起きた場合は、「想定外」と言われてしまいかねません。
そして最大の問題は計算式に入れる活断層がどれだけ正確に調べられるかという問題です。今回の能登半島地震が動いた活断層は未知の活断層でした。志賀原発の耐震設計基準は超えなかったと北陸電力は話していますが、想定外の地震でしたので、こんな大きな地震が襲うとは想定してなかったはずです。つまり、強振動予測の測定式「入倉・三宅式」を使っても、見えない地下に潜んでいる活断層が揺れれば、間違いなく強振動予測を超える巨大な地震に見舞われる可能性は捨てきらないのです。
日本には活断層が2,000ほどあるそうです。東京大学出版が出している書籍に「新編日本の活断層」という書籍があります。定価38,500円です。それには約2,000カ所の活断層が載っています。しかし、問題は日本列島の地下には見えない活断層が、その2倍ほどあるというのです。つまり「強振動予測」が可能なのは見える活断層だけに当てはまるものであって、見えない活断層には当てはまらないのです。
次にもう1つの問題があります。「強振動予測」は見える活断層の長さや幅で地震の揺れをパラメーターで係数を入れるといいましたが、Aという活断層とBという活断層が同一緯度や経度で離れて走っている場合があります。その場合は、それぞれをAとBが別々に揺れると仮定します。しかし、そのAとBの活断層は地下でつながっていることなど普通に考えられるのです。そうすると10キロのAと20キロのBは100キロ離れていて、それが一緒に動いたら、130キロの活断層が一気に動いて巨大にな地震を引き起こすのです。今回の能登半島地震はそれぞればらばらの活断層が地下で繋がっていて、総延長150キロが一緒にや別々に動いたと言われているのです。
未知の活断層は必ずあるし、それはいつ動くかもしれないという可能性を最大限に予測して、「地震はこない」と過信するのではなく、「地震はいつ来るかも知れない」と、自然の力を恐れて、最大限の予防措置を取ることが大事なのです。
つまり、私たちは地震を止めることはできませんが、地震が来ても大きな災害にならないように、危険因子は排除することはできるのです。ですから謙虚な姿勢でこれからも対応しようではありませんか。
家が壊れたらまた再建できます。原発が壊れたら放射能がばらまかれて、再建するには途方もないお金と時間がかかります。決して人間の時間軸では測れないほどの長い年月を要するのです。セシウム137の放射能が1/1,000にまで減るには300年間を要するのです。 福島県の大熊町や浪江町や双葉町などは若い人はほとんど帰還していません。帰宅困難地域の人びとやその周辺の人たちは故郷を奪われてしまったのです。
だから地震に対して危険因子の可能性のある原発はやめるしかないのです。しかも原発しか電気を作ることができないならいざ知らず、電気なんて簡単に太陽光パネル1枚あればできるのです。
なぜ原発のような化け物に依存するのですか。岸田首相も東電など電力会社の社長もそこで働く社員も芳野友子連合会長もみんな、頭が狂っています。以上。
原発建設を止めた日本の市民運動より
50個所以上の地域で原発建設を阻止した
グリーンピースより転載
#
by nonukes
| 2024-01-07 20:57
| 小坂農園 薪ストーブ物語
|
Comments(0)