2020年 08月 14日
原発撤退で残ったのは住民同士の対立だけ
朝日新聞特集「原発と関電マネー」
「関電工作班」による原発反対派潰しの実態が明らかに
小坂正則
珠洲市高江地区の原発建設予定地
1993年4月の推進派・反対派一騎打ちで戦われた珠洲市長選の反対派
電力会社は地域社会を破壊し続けた
昨年の9月に共同通信によって第一報が報じられた「関電疑獄」は昨年の6月に関電社員による内部告発によって、関西電力幹部と福井県高浜町の元助役、故森山栄治によって繰り広げられた、総額3憶6千万円にのぼる不正贈収賄事件でした。この事件は関電内部の「第三者委員会」によって調査されているはずなのですが、関電経営者に選任された「辞め検弁護士」が腐敗の膿を出し切れるはずはありません。
私は「つゆくさ通信」昨年の11月20日号で、「…この関電疑獄のような事件は氷山の一角にしか過ぎず、関電以外の電力会社も原発建設への贈収賄や不正な反対派切り崩しなど、全国で行われてきたのです。このような実態をマスコミは徹底的に調べてほしい」と書きました。その続報が8カ月以上経って、やっと明らかになったのです。
昨年の共同通信のスクープに出遅れた朝日新聞社は総力を上げて、「関電疑獄」事件の第2報を狙った取材に取り組んだのでしょう。ほぼ1年にも及ぶ総力戦で、次々と関電の違法な「秘密工作」や金銭のバラマキなどが明らかになって来たのでしょう。
第2弾の朝日新聞
朝日新聞の8月8日の記事は「原発と関電マネー」5回連続の特集記事です。東京版の朝日新聞読者とネット版の読者は読むことができたでしょうが、他紙の購読者や新聞を購読していない皆さんは読めないでしょうから要約して、この内容をお伝えいたします。
第1回目は「1原発立地『工作班』元社員に接触『来ると思っていた』」です。
昨年の9月末、朝日新聞の記者は関西電力の役員などに金品をばら撒いた、福井県高浜町の元助役・森山栄治氏(故人)の足取りを追っていたら、森山氏の関連会社に勤めていた関西電力の元社員A(73歳)の名前が上がり、北陸のある地方都市の自宅へ向かったそうです。玄関のインターホンを押すと、ドアの隙間から初老の男性が顔を覗かせて、「誰かが、いずれ取材に来ると思っていた」と言った。
そこから少しづつ「関電疑獄」の第2報が始まります。この男性は、突然の訪問にも関わらず、部屋に招き入れてくれた。そうして元関電社員は詳細な証言を始めた。彼に取っては、30年以上前に彼が行った「工作活動」への改悛の情があったからこそ、初めて会った見ず知らずの記者に対して、自らの活動を証言してくれたのでしょう。会社のために忠誠を誓って秘密工作を行った元関電社員の中にも、自分の良心を取り戻すための証言を行う人もいるのです。
元社員は、森山氏の話を一通り終えると、こんなことを口にした。「高浜以外の原発でも、表にできないことはある」と。それは石川県珠洲市に計画されていた珠洲原発の建設に向けて、元社員は90年代初めに珠洲市に着任して10年余り現地に張り付いて、現地住民の原発建設反対運動の切り崩しなどを行ってきたのです。しかし、珠洲原発建設は2003年に関電が建設凍結を宣言し、実質的な白紙撤回をしました。
元社員は「原子力に従事した人生の回顧録」。元社員はそんなタイトルの回顧録を書き始めていた。2万字以上にわたって、珠洲原発の計画に関わった10年余りの活動をつづった。
元社員によると、関電は石川県に前線部隊「石川班」を置き、金沢、珠洲両市を拠点に原発計画を進めた。珠洲立地事務所には、計画予定地の先行取得を担う「陸班」、漁協対策を手がける「海班」、住民合意を得るための広報・宣伝活動にあたる「PA(パブリック・アクセプタンス)班」、議会対応の「議会班」があった。
関電が和歌山で当時進めていた原発計画や京阪神で用地取得に携わってきた、たたき上げの40~50代の社員が集められた。現地ではアパートは借りず、出張扱いだったという。元社員によると「計画が続く限り、市の有力者の懐にカネが入る仕組みだった」と言い、当時の珠洲市助役や市関係者らが経営していた市内3カ所の旅館などに分宿して、いろんな名目で市役所の幹部にお金が入っていた。
立地「工作班」の証言
朝日新聞8月9日号では「2原発反対派と対立「土地は買わず借りる」元課長の証言」です。2日目の朝日新聞の書き出しは「日本海に突き出た石川県・能登半島の最北端で、かつて関西電力が進めた原発計画。現地で展開された数々の「工作活動」を元社員が証言しました。会長、社長の辞任に発展した関電の金品受領問題を追ってきた取材班が、原発立地をめぐる電力会社の水面下の動きに迫ります」とあります。
朝日新聞取材班は珠洲原発予定地へ入って取材を始めました。石川県珠洲市の高屋地区(珠洲原発予定地)は平地が少なく、急斜面の山々が海岸に迫る。港を中心に古い木造の家屋が寄せ合うように並ぶ。この100世帯に満たない漁師町に、関西電力は原発計画の照準を定めた。地元選出の元市議の男性(82)は「どこの企業も来てくれないような所に、関電が手を挙げてくれた。すがる思いだった」と振り返る。原発は数千人が働き、定期検査ごとに全国から作業員が集まる。宿泊、飲食、警備など裾野が広い産業だ。働く場があれば、若者の流出を食い止められる。「他の企業が来てくれるのを待っても無理。現実問題として、原発は過疎脱却の大きな原動力になる」と確信し、推進した。
そして「よく調べてきたな」。記者の突然の来訪にも驚かず、関西電力の元課長B(76)は言いました。取材の趣旨を説明すると、「そうや、珠洲で裏工作をしとった」。土地の先行取得を担っていたといいます。
しかし、1986年にソ連のチェルノブイリ原発事故が起こり、珠洲市では原発建設反対運動が活発化します。
その対立は激化して、計画を推進していた自営業の男性(79)は「反対派の連中とは目も合わせなかった。理解し合えるとも思わなかった」。原発建設賛成・反対で親子関係にひびが入る家庭もあった。反対派のお店では賛成派は買い物をしないなどの大きなしこりが珠洲市民に襲い掛かってくるのです。
高屋地区は賛成、反対に分かれていた。反対派の住民らは土地を共同名義にする共有化を進め、関電の買収に対抗していた。地権者の中には周囲の目を気にし、関電への譲渡が公になることを恐れる人もいた。
元課長Bは「反対派にしっぽをつかまれないように土地は買わずに借りた」と証言。買収で所有権が移転しなければ、登記簿には載らない。つまり、表には出ないからです。地権者とは賃貸借契約を結び、建設が決まった際にすぐに買収できるように、5年ごとに契約を更新していった。元課長Bは「現地は土地の取引が少なく、相場があってないようなもの。うんと高い地代で借りた」。事務所には地権者らの家系図や土地の権利関係をまとめた「名寄せ帳」があった。変化があれば、書き換えていった。また、「どの土地をいくらで借りたなどと漏れては、他の地権者との交渉で支障が出る。直属の上司以外、同僚とは飲み会の席でも仕事の話は一切しなかった」とも。
元課長Bは「海の状態をいつも見ていた」と言った。しけの日は出漁できない漁師が自宅にいるからだった。
「立地対策は潜水艦と同じや」関電元幹部
8月10日の朝日新聞は「3、立地対策は「潜水艦と同じや」関電元幹部が明かす手の内」です。朝日新聞の取材班は資料を探していたら1999年10月11日の朝日新聞「原発用地取得 ゼネコン介在」が目に留まった。そこで、取材班は当時を知る関係者を探すも難航し、朝日新聞のOBに連絡を取ることにした。冒頭のスクープ記事を書いた記者の一人だった。翌朝、都内の喫茶店でOBと会った。茶封筒から取り出された資料の中には、土地取引をめぐる関電の動きを取材した21年前のメモがあった。土地取引を知る石川班のメンバーの実名も載っていた。その資料をもとに、取材班は関電の元課長C(78)が京都府内にいることを突き止めた。
元課長Cは京都や大阪で用地取得のイロハを学び、和歌山で原発計画に関わった。その後、珠洲原発計画の前線部隊「石川班」に投入され、金沢市内にあった事務所を拠点に活動したという。元課長は土地の先行取得も担っていた。
最後はカネで落とした
原発予定地の高屋地区は高屋港を軸に民家が扇の形のように広がる。土地の多くは、首都圏に住む大地主の医師が所有していた。この医師の切り崩しこそが「最大の任務だった」と元課長は言った。当時は旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が人々の記憶に新しかった。「火力発電所と違って、原発は重大事故が起きれば放射性物質が出る。安全と言っても、信用してくれない。最後はカネで落とした」と元課長Cは言う。元課長Cは上司だった当時の部長(故人)とともに医師の土地の取得をめざした。「反対派に悟られないように、関電の名前を隠した」と水面下で工作を進めたことを認めた。
この医師は土地を売却しながら譲渡所得を申告しなかったとして所得税法違反(脱税)の罪に問われ、有罪判決を受けた。元課長は地検に聴取され、地裁にも出廷したという。医師の親族がかつて関電側に土地の一部を売却したのが明るみに出て、反対派の批判を浴びたという。このため医師は土地の売却が公になることを避けたかった。元課長は「計画に反対の地元住民も多い。最初から関電の名前が出ると地主が困る。ダミー名義でないと土地を取得できなかった」と言った。
ゼネコンがなぜ電力会社に代わって土地買収に関与したのかというと、「関電からの(将来の)仕事の受注を見越してのことや」と説明し、関電、ゼネコン双方にとって都合のいい取引だったという。
医師との土地取引について、関電は「当社からゼネコン等に買収を依頼した事実はない」と回答した。一方、一審、二審とも裁判所は関電側の関与を認定した。
元課長は原発の立地対策について、こう指摘した。「水面下に潜って周りに悟られないように近づき、狙った的を打ち落とす。潜水艦と同じや」と続けて言った。「原発は本質的に危険を抱えとるから水面下の動きがないと造れんし、動かせん。立地に共通すること。それが表面化したのが高浜原発や」
推進派の飲み代もタクシー代も関電持ち
記者が関西電力が原発計画を進めた石川県珠洲市の高屋地区の港近くに住む60代の元区長を訪ねると、「夏だとカワハギ、その後からブリ。ここらの海は魚がよう取れるぞ」。そう言いながら、計画当時のことを振り返った。「市は原発誘致に向け、各地の原発を見学するツアーを組んだ。元区長も飛行機に乗って、北海道電力泊原発や九州電力川内原発(鹿児島県)へ足を運んだ」。そして現地の電力会社は「原発ができたら両氏は養殖業を、農家はハウス栽培で、地元に金が落ちて食うていけると言ったので、原発ができたら地元は食えると思った」から元区長は原発計画を支持した。
しかし、関電が1989年に高屋地区で建設に向けた地盤調査に着手したことがきっかけで、反対運動は広がり、推進派と反対派の対立は深刻化した。高屋地区で反対運動を率いた圓龍寺住職の塚本真如さん(75)は「アリが巨象に立ち向かうような闘いだった」と表現する。塚本さんは、「関電は住民の中に入り込み、時にはカネの力を使ってシンパを増やしていった。原発計画は、推進と反対に分かれた住民同士が目も合わせない、口も聞かないほどに集落を引き裂いた」と。「信念もカネの力の前には屈する。心まで傷つけてしまう。その事実を見せつけられた28年間だった」
塚本さんはそう振り返る。住民への懐柔策は多岐にわたったという。「カーさんにつけとくな」。塚本さんが市中心部の飲食店に入ったところ、店主にそう言われた。「カーさん」とは関電のことを指していた。住民がタダで飲み食いし、カネで落とされていることに気づいたと話す。病院へのタクシー代を関電に払わせた住民もいた。
市議会の議長経験者は、珠洲市の隣にある輪島市内で接待を受けたと打ち明けた。「珠洲からだと輪島までタクシーで片道1万円かかる。往復で2万円。料理とお酒で2万円ほど。関電は『情報交換』と言って個別に誘ってきた」。これなどは明らかに買収工作で、違法行為が公然と行われてきたのです。関電は地元住民をお金漬けにして反対派を切り崩し、推進派へと個別に寝返らせ続けてきたのです。そのような「工作」は全国の原発現地で繰り広げられてきました。
原発撤退で残ったものは住民同士の対立だけ
ところが電力需要の頭打ちと電力自由化で2003年に関電が「凍結」を表明して、事実上の原発建設は白紙に戻り、あっけなく計画は終わってしまったのです。そこに残ったものは推進派と反対派の感情的な対立だけでした。
珠洲原発計画をめぐる「工作活動」。取材の端緒となった元社員A氏は半年間、計約20時間にわたり朝日新聞の取材に応じました。 彼はなぜ証言しようと思ったのか。「当時は、地域のため、会社のためと思った。しかし、結局、珠洲には何も残さなかった」きっかけは、2011年の東京電力福島第一原発事故だったという。「僕は珠洲で『原発は安全』『たとえ事故が起きても外に放射性物質は漏れない』と繰り返し言ってきた。それがあの事故で全部崩れた。そのことに対する責任をずっと感じていた」また「本音では原発を造るのは無理だと思っていた。現地にいた他の多くの同僚もそうだと思う」と元社員。それでも必死で取り組んだのは、サラリーマンの意地があったからだという。
不毛の対立を地域に持ち込んで、撤退してもしこりが残り、原発が建てば、事故の危険性と恐怖を抱えながらの終わりのない生活が続く。しかも、原発ができても町の過疎化への歯止めにはならなかったことも今頃になって分かった。朝日新聞の「原発と関電マネー」特集は、関電の決定的な違法行為などの証拠が解明されるような記事ではありませんが、30年にも及ぶ関電社員による「工作」によって原発立地自治体がお金で人びとの心やコミュニティーがボロボロに破壊されたことの貴重な証言を得ることができたことの意義は大きいと思います。それに、関電元社員の皆さんの証言は、原発がいかに違法行為によって作られた「迷惑施設」であるかが分かるでしょう。
いま建っている日本中の原発立地自治体でも、建設を巡って数十年以上の対立の末に不法に建てられたものばかりです。その地元住民の苦しみを想像して、都市住民は我がこととしてこの後始末をどう解決すべきかを考えるきっかけにしてほしいものです。
by nonukes
| 2020-08-14 14:42
| 原発再稼働は許さない
|
Comments(0)