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小坂正則の個人ブログ

1人で郡山市内の放射線量を計り続けた元福島県職員の残した手記『毒砂』

小坂正則

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今年の3月11日で福島原発事故から8年。原発事故の『悪夢』はいまだに多くの人々を苦しめている。
東電福島原発事故は「人災」だった。そして、今も放射能はほとんど衰えることもなく事故は続いている。
地震と津波は防ぐことができなかったとしても、もしディーゼル発電機室の扉を防水扉にしていたら津波が襲ってきても発電機は水浸しにはならずに、冷却ポンプは作動して原子炉を冷やし続けられた。もし、駆けつけた電源車のソケットが合っていたら、冷却ポンプは動き爆発事故は免れたかもしれない。
国や東電経営者と、利害関係者の「原発安全神話」と「利益第一主義」が多重防御システムの発想と努力を失わせた結果、事故は起きた。
原発事故後、国と県にマスコミも一緒になって「原発事故は過去の出来事」であるかのように、放射能汚染の実態も甲状腺ガンで苦しむ子どもたちのことも伝えなくなった。そしていま、避難者の帰還と復興を推し進めるために、「風評被害」という名の「戒厳令」が福島を覆っている。
国や県の棄民政策に耐え切れず、その事実を隠し続けるマスコミと、独りでたたかった元福島県職員が残した手記が出版された。
この書籍は非売品です。お読みになりたい方は小坂までお問い合わせください。

故安西宏之さん葛藤の手記 

一冊の本を頂きました。「毒砂」。読みだして最後まで止められませんでした。著者の安西宏之さんは、もと福島県職員。原発事故後の2012年5月に早期辞職され、一人で住んでおられた郡山市内を線量計を持ってくまなく測定して歩き、誰に知られることもなく詳細な線量マップを作られました。そして、多数のマイクロスポットがあること、特に子どもたちが遊ぶ公園等の刷毛ではいたような黒い砂(毒砂)の線量が高いこと等を解明され、原子力資料情報室にデータを託したあと、2017年7月に亡くなられました(享年60)。棄民政策の手駒にされることに耐えきれずに県職を辞職した後、市民運動に加わることはなく、一人で、子どもたちを守ろうとしない国、県、マスコミ等に対する激しい怒りと深い絶望を抱えて生きてこられました。時に能面のように見える公務員の方々の中に、しかしこのような人間としての葛藤があるのだということを胸に刻みました。そして、この方も、福島原発事故の犠牲者であるのは間違いありません。
(井戸謙一弁護士:脱原発弁護団)

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「書評」に代えて私のメモ書き
小坂正則

上の文章を書いたのは2月中旬でした。井戸川謙一弁護士のフェイスブックの文章から、この安西宏之氏の『毒砂』という本のことを知りました。そこで、FB上で井戸川さんの文章に「原子力資料情報室にはまだ書籍が残っているようなので読みたい方は問い合わせて下さい」とありました。すると、その後に誰かの書き込みで「既に原子力資料情報室には在庫はないそうです。ほしい方はたんぽぽ舎にはまだ少し残っているそうなので問い合わせてみて」とあったのです。そこで、私はさっそく「たんぽぽ舎」へ問い合わせたところ、「まだ少し残っていますので、送料だけで送ります」と快く承諾して頂きました。そしてこの原稿を書いた翌日に『つゆくさ通信』を発送したのです。ですから私は『毒砂』を今日やっと読了したのです。私の手元に届いたのは5日ほど前なのですが、仕事が忙しくて、半分だけ読んでそのままにしていました。ところが、『つゆくさ通信』の読者の方から「ぜひ読みたいので送ってください」という手紙を頂いたので、早く読み終えて送らなければならなくなったからです。

「タンポポ舎」へ今から問い合わせても多分もう在庫切れかと思います。 残念ですがどなたかから借りて読んでください。もし借りて読むことができない方は、こちらから郵送して、読んだあと返送してもらえればお貸しすることも可能です。(郵送料215円負担願います)私の持っている1冊はこれから私の周辺の仲間たちによって読み回されることだと思います。この安西さんのことを少しだけ書きます。1957年生まれで、2017年7月に60歳で自室で孤独死をしたそうです。安西さんは2012年まで県庁職員でした。その後2011年3月11日の福島原発事故を迎え、人びとが原発事故の放射能で被爆を強いられているのに、県職員は上からの指示で「何事もなかったかのように」自分の心に偽って県民を裏切るような仕事が嫌になって中途退職したそうです。彼は若い頃学生運動が下火になる寸前のころ、学生運動に参加していたそうです。安西は私さんより4歳下なのですが、彼は東京の大学に1975年に入学したそうですから、1年浪人したのでしょう。ちょうどその頃の学生運動といえば中核派と革マル派の「内ゲバ」が繰り広げられていた時代でした。彼は運悪く2つのセクトの友人がいて、一方の方からスパイ呼ばわりされたそうです。
それでも三里塚闘争(成田空港反対運動)もまだ闘われていました。成田空港の前にそびえ立っていた岩山大鉄塔が撤去されたのが1977年ですから、彼が大学2年生の頃です。少数ながら中核派や革マル派とは関係のない学生たちは、矛盾が噴出した70年代という時代を、ベトナム戦争や水俣病に三里塚闘争などに共感して政府や大企業の強圧的な政治に抗議の声を上げていたのです。
彼は大学に入って、マルクスの書物を読んで感銘したと書いています。私も大学1年に入学と同時に新聞部に入部して、そこでマルクス・エンゲルスの書いた小冊子『共産党宣言』を読んでくるように先輩から告げられて、10回くらい読んだ記憶があります。それは向坂逸郎というマルクス経済学者が「マルクスの資本論は労働者であれば誰でも理解できる」とか「マルクスの書物は難しいと言う人がいるが100回読めば分かる」と先輩が話していた記憶があるのですが、果たしてそれが事実かどうかは確証はありません。
そう言えば、私と安西さんとの共通点がもう2つありました。それは互いに元公務員だったことと、早期退職したということです。私は郵便局員でしたので、すでに辞めた時は国営事業が民営化されていたので厳密に言えば公務員ではありませんが。ただ、元公務員の私の仕事は県庁職員のような県民と対峙するようなことはありませんでした。でも自分を押し殺して仕事をすることはいつものことでした。まあ、サラリーマンは「自分を押し殺して」働くことは当たり前のことでしょう。私は偶然にも2011年3月いっぱいで早期退職しました。安西さんはその翌年に退職したのです。私は第二の人生を自らが立ち上げたNPOの専従職員として好き勝手に生きる道を選んだのですが、彼は絶望的な思いで退職したのですから、その精神的な重圧は計り知れないものだっただろうと察します。

そんな彼が県庁に就職して311のよく年に県庁を辞めて、酒に溺れていた頃、病院の先生から「このままの自堕落の生活を送っていたらすぐ死んでしまうぞ。何か運動でもしなさい」と脅されてふと気づいたそうなのです。運動になりなおかつ有意義なものがあると、それが郡山市中の放射能汚染図を作ることだったのです。2015年5月から8月までの3ヵ間、一人でセッセと郡山市中を500メートルのマス目を作って,空間線量を測って地図に落とし込んでいったのです。その中で、公園の脇や道路の端などに黒い砂か苔のような場所に放射能のホットスポットが市内全域にたくさんあることに気づいたのです。それを彼は今本のタイトルである『毒砂』と名付けるのです。彼はこの本を2017年5月に書き上げています。そしてこの資料をどのように公開するかで苦しむのです。なぜかというと「このデータを公表することで多くの人びとは混乱したり不安になったりするだろうけど、それに対する対処法を私は持っていないではないか」と自問するのです。「しかし、公表しなくて、このまま何事もなかったかのように沈黙すれば、国や県のように人びとの安全や安心をないがしろにして「復興」や「風評被害」と言う勢力に荷担することになってしまうではないか」と。
その結果取った行動が「原子力情報室」へ委託するという方法だったのです。それから2月後に彼は亡くなってしまうのです。まるで、彼の全生命力を絞り出して果たした「仕事」を完成させたことに安心して、ろうそくの火が消えていったかのようにです。
後書きに原子力情報室の共同代表の山口幸夫さんが書いていますが、2017年9月に安西さんのお姉様から手紙を頂いたそうです。そこで初めて安西さんが亡くなったことを知り、お姉様の希望で今回の書籍が自費出版となったのです。彼はその前にも小説を書いているそうです。『炎の独り言』というタイトルです。『毒砂』の中で、次の小説を書こうか悩んでいるとも書いていました。次作は実現出来なかったのでしょうが、『炎の独り言』を読んでみたいです。
安西宏之さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

by nonukes | 2019-03-10 15:18 | 福島原発事故 | Comments(0)

  小坂正則

by nonukes