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小坂正則の個人ブログ

映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」を観て

吃音(きつおん)の少女が普通の高校生として懸命に生きようとする
小坂正則

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吃音の現実から逃げようとする志乃ちゃんはやがて自分に立ち向かっていく

先日、大分のシネマ5(映画館)で「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」を観てきました。原作は同名の押見修造作のコミックの映画化作品だそうです。あらすじは。
大島志乃さんは高校の新入生で、新しいクラスで、自分の名前がスムーズに言えなくてクラスの仲間からからかわれたり、笑われてしまいます。
落ち込んだ志乃ちゃんは自宅に帰ります。そして母親は「どうだった」と聞くと、「別にうまくいったよ」と母親に言って自分の部屋でベッドに倒れ込んでしまう。志乃ちゃんは母親には普通に会話できるのです。そんなクラスの仲間に溶け込めない志乃ちゃんは授業で先生に当てられるのが嫌で嫌でたまりません。何もしらない先生は志乃ちゃんが満足に喋れないことに不思議に思うだけです。先生も志乃ちゃんの吃音に無理解なのです。担任の先生に呼ばれた志乃ちゃんへ、先生は「志乃ちゃんはクラスみんなと打ち解けていないのと、緊張しているからうまく喋れないのよ。焦らずに緊張しないようにしましょう。そうすればきっとうまく話せるから」と励ますのですが、それは彼女のとっては逆効果なのです。緊張を解こうとすればするほどうまく話せないのです。「吃音」は自分ではどうにもならないのです。だからなおさら「緊張をしなけばうまく話せるわよ」と勇気づけられれば勇気づけられるほど彼女は傷つくのです。
周りに溶け込めない志乃は校舎の裏で一人弁当を食べていると、歌の練習をしにきた同じクラスの加代と出会うのです。加代は音楽が好きで、ミュージシャンになりたいと考えていて、ギターを練習いている女の子です。2人はひょんなことから知り合い、加代が志乃ちゃんに「私の家に来る」と、聞くと志乃ちゃんは嬉しそうに加代の家に遊びに行きます。そして、加代が「あの素晴らしい愛をもう一度」のメロディーをギターで弾いて、志乃ちゃんに「謳ってみろよ」と言います。すると志乃ちゃんは「あの素晴らし愛をもう一度」の歌をスムーズに歌うのです。次の日加代が志乃ちゃんに「志乃。私と2人でバンドを組もう」と提案します。加代は音楽が好きなんだけど音痴なのです。だから、加代がギターを弾いて、志乃が歌えば、「2人で一人前じゃない」と提案するのです。加代はグループの名前を「しのかよバンド」と名付けます。そして秋の文化祭に2人で出ようと提案するのです。夏休みの間、2人は隣町までバスに揺られて出向き、駅前の公園でストリートミュージシャンの真似をします。そしてどんどんレパートリーが増えて行くのです。
そこで、私は「2人が秋の文化祭でうまく歌えて、大きな拍手をもらい、志乃ちゃんがクラスの仲間の中に打ち解けて行くのかな」と思ったのです。そして最後に志乃ちゃんの「わっわっわっ私はしっしっ志乃です」と詰まりなが言って、クラスの仲間は普通に志乃ちゃんを仲間として受け入れるのかな」と思ったのですが、そんなハッピーエンドではありませんでした。志乃ちゃんと加代の間に亀裂が入って、2人で文化祭には出ません。加代が1人で出て、「魔法」という自作の歌をギターを弾きながら歌います。志乃ちゃんの歌です。その歌が終わりそうな時に志乃ちゃんが体育館にやって来て、どもりながら「私はわたしなんだ。私はうまく話せないけど、私は自分で一生懸命にみんなと話したいだけなんだ…」と、自分の胸の内を告白するのです。そして映画はパンして翌日の学校の昼休みのクラスに変わります。そこで、加代は1人屋上でギターを弾いて自作の歌を作っています。志乃ちゃんは自分の机で弁当を食べています。そこへ誰かクラスの女の子が紙パック入りのみかんジュースを2つ手に持ってやって来て、志乃ちゃんに「はいこれあげる」と言って、ジュースを志乃ちゃんの机に置いて去っていきます。志乃ちゃんは「あっあっあっありがとう」とお礼を言います。
それで映画は終わるのです。決してハッピーエンドではありません。でも「少しだけ小さな明かりが見えるような、でも実際はほんの1㎝くらいしか前には進んでいない現実なんだ」と、いうようなリアリティーを感じる映画でした。「2人は別々にこれからは生きていくんだろうな」と予感するのですが、それでも2人の少女がとても輝いている映画でした。

人には言えない苦しさでも、自分と立ち向かっていくしかない

実は私も子どもの頃は随分吃音で悩み、苦労もしました。今はそんなにどもることはないのですが、それでも緊張したら自分の名前を言い出せないことがあります。特に子どもの頃は、吃音がどうすれば治るのか随分悩んだものです。「結局治すことを諦めれて、どもる自分のありのままを受け入れるしかない」のです。それを自覚するまでには長い時間を費やしました。私は考えたのです。私は話し辛くても、相手が少々聞きづらい喋り方でも、私が話す内容が相手に感動を与えるものであれば、喋り方が少し変でも、相手は何も気にしないものなのです。自分が気にするほど相手は私のことなど気にしていません。むしろ個性的な喋り方だと褒めてもらうことすらあります。ですから、私はいかにして、私が相手に感動的な内容の話ができるかと努力することにしたのです。
もちろん私が話すチャンスなどそんなにたくさんはありません。でも、発表会で話すことや講演会で話すことなどの場面はこれまでに結構ありました。私は自ら進んで人前で喋るように心がけています。逃げずに立ち向かっていくことで障害を乗り切ることだからです。
そんな場面を経験しながら、いつか気づいたら、相手も自分に対しても特に気にしていないことに気づいたのです。当時の辛い思い出や苦悩が今では遠い昔の思い出です。
ただ、この話をブログに書くために「吃音症」をウィキペディアで調べたら、現在は厚生省は吃音症を障害として認定しているそうです。しかも障害者手帳も発行してくれるそうですし、障害者として特別雇用枠で雇用されると書いていました。「随分社会も変わったのだな」と感じました。みなさんもチャンスがあったら、映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」をぜひ観てください。


映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」


by nonukes | 2018-09-12 00:40 | Comments(0)

  小坂正則

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