2018年 06月 30日
政府が愛国心を強要する国は民主主義国家ではない
道徳教育は何をめざしているのか
小坂正則
「今年から小学校で道徳が教科となった」と新聞やマスコミで伝えられる度に、「この国の政府はなぜこれほど堕落するのだろう」と、思わずにはいられません。
自民党は結党以来、米国による押しつけ憲法「改憲」を目標にしてきた政党ですが、この政党は改憲の前に子どもたちの教育の憲法である「教育基本法」を2006年に改正して「国を愛する態度」を教育の目的に据えました。1957年に作られた「教育基本法」は、人びとを戦争に巻き込んだ大きな要因が、「軍国主義教育」にあったと考えて、戦後の日本が二度と誤った道に陥らないためには、子どもたちへの人権教育が必要だと考えて、できたものが「教育基本法」と日本国憲法だったのです。
特に「軍国主義教育」として「修身」や「教育勅語」などの教え方が否定されたことに大きな意味があるのです。「国民は天皇の赤子であり、いざとなったら天皇のために命を捧げなければならない」という国家のために国民がいるのではなく、国民主権国家の考え方がこの国の根本原理なのです。
旧「教育基本法」前文
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
新「教育基本法」前文
我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに、我々は、日本国憲法 の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。
第2条5項
伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
旧教育基本法と新法はほとんど文言は変わってはいないように感じますが、旧法の前文には誤った戦争を行ったこの国が、二度とその過ちを繰り返してはならないという反省と強固な決意を表したものが、「教育基本法」の中に高らかに掲げられています。しかし、2006年に改変された、新法には、その反省が取り除かれて、「教育基本法」の目的として第2条5で、「我が国と郷土を愛すること」をこっそり入れ込んでいます。
国を愛するって悪いことなのか?
「教育基本法」が、国を愛することを目的としたら、何が悪いのでしょうか。
「なぜ国を愛することが悪いの」と思う人もいるでしょう。オリンピックやワールドカップで日本選手が勝つと、多くの国民はうれしくなります。うれしくならない人は少ないでしょう。それに、外国旅行をして日本に帰ってくると、「やはり日本が一番だ」と思ったりします。外国に長く住んでいる方の中には、「外国に住んでみて愛国心が芽生えた」と言う人もいます。南米に移住したブラジル在住日本人の皆さんの多くが、我が祖国をこよなく愛しているという話しも聞きます。
そんな自然に芽生えた自分の国やふるさとを愛する感情を、私は「悪い」とは思いませんが、それを無理矢理に個人に強いるという手法は憲法13条の「個人の尊厳」や憲法19条の「思想信条の自由=内心の自由」に土足で国家が踏み込むことになる危険性があることを指摘しなくてはならないのです。
日本国憲法第十九条で「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とあります。つまり、日本国憲法は国家が国民の自由(言論・表現の自由)に制限を加えられる範囲は公共の福祉に反する場合だけであり、ましてや憲法19条の「思想及び良心の自由」=「内心の自由」に国家は元より何人も立ち入ることはできないのです。内心の自由とは、私が考えたり思うことであり、表現の自由のような行動の伴う行為ではありませんから、宗教や良心や道徳がどんなに人と違う考えを持っていたとしても罰せられることはないのです。ですから、民主主義国家の政府が国民の「内心の自由」に立ち入って「国を愛せ」と要求することはできないのです。独裁国家には「内心の自由」はありませんから、北朝鮮や中国では「国を愛せ」と要求するでしょうが、民主主義国家では、社会保障や自由などの人権を尊重することによって、自然と国民は自分の国を愛するようになるのです。それでも、国を愛さない権利も国民にはあるのです。
道徳教育で国は内心の自由に手を突っ込もうとしている
前川喜平氏の著書「面従腹背」という本が6月30日に発売されました。私は予約していたので、発売前に手に入りました。私が「道徳教育」の問題を指摘するよりも前川喜平氏が、その問題点を書いていますので、私はそこから引用させていただきます。
P159立憲主義の下、国が教育課程の基準として設定できる道徳的価値は、憲法が立脚する「個人の尊厳」という根本的な価値及びその上に立てられた「基本的人権の尊重を重んじ」「日本国憲法に則り」という言葉は、2006年改正の教育基本法にも残っている。ところが学習指導要領が設定した「自由」「平等」「平和」などの憲法的な価値の扱いがきわめて小さい。一方「家族」「学校」「郷土」「国」とい集団への帰属意識や、「節度」「礼儀」「規則」「公共の精神」などの規範が並べられている。……これらの多くは憲法からは導きさせない価値であり、さらには「父母、祖母への敬愛」「国を愛する心」など、個人の尊厳という憲法的価値に違背する疑いのあるものも含まれている。人間の内面的価値への限度を超えた国家介入であると考えざるを得ない。
P164『私たちの道徳』(小学5、6年生)の中の一節、「郷土や国を愛する心を」にはこう書いている。「この国を背負って立つのはわたしたち。わたしたちの住むふるさとには、我が国の伝統や文化が脈々と受けつがれている。それらを守り育てる使命がわたしたちにはある」。ここで「わたし」と「国」との関係は、個人の尊厳に立脚する憲法原則とは正反対のものになっている。個人以前に国家を設定し、国家のための「使命」を個人に負わせるこの論理は、教育勅語「万一危急の大事が起こったら、大義に基づいて勇気を振るい一身を捧げて皇室国家のために尽くせ」まで容易に進んでしまう危険性を孕んでいる。(ここまで引用)
つまり、「新教育基本法」の下で作られた「道徳」で、この国の次代を担う子どもたちに「教育勅語」の精神である「国家のための個人」という考えを「父母への敬愛」や「郷土や国を愛する心を」という形でこっそりと刷り込ませようとしているのです。
「父母への敬愛」や「郷土や国を愛する心を」を強要することは日本国憲法に反しているのです。国を愛することは自由ですが、国を愛さな自由の権利も同時に国民には保障しなければならないのです。
公立の小中学校現場では教師は卒業式で起立して国歌斉唱などを義務化されているようですが、子どもにはその義務はありません。
P99で、菱山南帆子さんという方が「嵐を呼ぶ少女」という動画を観た。彼女が小学校5年生のとき、卒業式で君が代を歌う場面で、歌うこと拒んで着席したそうだ。「『そんな歌を強制されてたまったもんじゃない』と思って、『私は座るぞ』ということで、座ることにしたんです」「校長先生からは『国の大切な歌だから歌いなさい』なんて言われて、『関係ない』って思って、『何でそんなこと強制されなければいけないんだ』なんて思ったんです」「生徒の中で私一人、日の丸君が代を拒否して座りました」
彼女は文科省も認める正当な権利を行使したのだが、…私は生徒全員が何の疑いも抱かずに整然と国歌斉唱する学校よりも、彼女のような生徒がいる学校の方が健全だと思うのだ。
(ここまで引用)
私は「個人の尊厳」という日本国憲法に則った学校教育というものは、彼女のような自律的な人間形成を支えることが本来の学校教育に求められていることだと思います。もちろんみんなが座ることがいいことだというわけではありなせんが。同調圧力に流されないで個人の意思を持って行動できる子どもの権利を保障することこそが民主主義の原点だからです。
全体が一糸乱れぬ行動を取るよりもバラバラのようだけど、それぞれが一人ひとりの力を発揮することのできる社会が、今一番にこの国に求められているのではないでしょうか。
多様性の尊重や互いの違いを認め合う社会こそ力強い社会を作り出すのです。「国を愛する」ことを強制するよりも、世界平和や世界市民というグローバルな視点で、国際貢献のできる子どもたちを育てることが、この国の教育の目的でなければならないのです。
by nonukes
| 2018-06-30 19:32
| 小坂農園 薪ストーブ物語
|
Comments(0)