2015年 04月 07日
それでも必死に安倍政権に抵抗をする朝日新聞よガンバレ
それでも必死に安倍政権に抵抗をする朝日新聞よガンバレ
小坂正則
「3月29日の朝日新聞社説がいい」というFBの書き込みを見た私は、朝日の3月29日号を探したのですが見つかりませんでした。そしたら、今朝ひょんなところからでてきたのです。そして、読んでみたら確かに現在の安倍政権の暴走を批判する社説でした。ただ、残念ながら「安倍政権の激走」というちょっとしまりのない見出しでした。この見出しはどう考えても「安倍政権の暴走」でしょう。ここまで猛スピードで戦争へ突き進もうとしている政治手腕を暴走と言わずになんと言おうかと思ったのですが、そこまで気を遣う様ははやり朝日新聞だけが「暴走」してはまた官邸バッシングを受けかねないと心配してデスクが表現を柔らげるように配慮したのではないかと、私は勘ぐりました。
タイトルの弱々しさはさておき、三原じゅん子代議士のトチ狂った「八紘一宇(はっこういちう)」(世界を一つの家とする意味)という戦前の軍国主義ナショナリズムのスローガンを賛美する「ネトイウ」価値観を国会の場で堂々と披瀝するなどこれまでには考えられなかったことです。この代議士の頭に中には「日本の戦争責任」や「アジア侵略の責任」など微塵もないのでしょう。日本軍国主義政府はアジア侵略の大義名分として「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」というイデオロギーで国民を洗脳支配してきたのです。それを賛美するなど時代錯誤も甚だしくて、こんなニュースが海外配信されたらそれこそ日本人全体がそんなウルトラ右翼思想に染まっているかのように思われかねません。同じタレント議員でも山本太郎と偉い違いですね。
そのような負の歴史観が安倍政権になってから確実に復活しつつあるのです。そして安倍首相が国会で意識的に「わが軍」と言ったりしたことなども国民の意識の中に右傾化思想を植え付けて、9条改憲の必要性を慣れさせるという洗脳戦略なのでしょう。
安倍政権から朝日は「従軍慰安婦強制連行」批判で集中砲火を浴びせられた
「従軍慰安婦の強制連行誤報事件」という1つの新聞記事に対して、あれだ首相に名指しされて朝日新聞バッシングを受けてきたのですから、一人朝日新聞だけで跳ね返すのは無理があるでしょう。狭義の意味で石田証言が従軍慰安婦強制連行が誤報記事だったとしても、そんな誤報記事なんかいくらでもあるでしょう。その1つの記事を捕まえて鬼の首を取ったかのように有頂天なって、広義の意味での「強制連行」までもがなかったかのような言い方をする一国の首相があるでしょうか。「白馬事件」といわれる、インドネシアに日本軍が設置した従軍慰安婦施設はオランダ人女性を狭義の意味で「強制連行」して設置したというような事実を中曽根元首相自ら証言しているのです。若い女性に「いい仕事があるから来ないか」と、だまして戦地まで連れて行き、監禁状態の中で、女性が拒否して帰国する自由などあるはずがないのです。このように騙したり、強引に慰安婦を募集する行為などはだれが考えても「強制連行」そのものです。それを「強制連行とは銃を突き付けて拉致することで、そのような慰安婦狩りの証拠は見つかっていないから従軍慰安婦の強制連行はなかった」という反論など何の意味もありません。世界へそのような非論理的な反論をしたところで、日本の戦争責任や強制連行の罪が消えることなどないのです。それよりもきちんと歴史に向き合って、「戦前の日本が起こした過ちを二度と繰り返さない」と誓うことこそが、戦後70年の私たち日本人に最も必要なことなのではないでしょうか。
マスコミを萎縮させないたたかいこそが大事
しかし、朝日バッシングに対して、マスコミ各社は一致してこれに対抗しませんでした。
それどころか政府の御用新聞社の読売や産経は、ここぞとばかり、安倍と一緒になって朝日バッシングを行っていました。残念ながら良識あるはずの毎日新聞までが、新聞拡張戦争のために、朝日バッシングを毎日新聞拡張の絶好の材料とばかりに利用して、一緒に共闘して言論の自由を守るというたたかいをしなかったのです。ですから、朝日が一人安倍の執拗な攻撃にさらされてきたのです。
朝日新聞の社説の中で「昨今「メディアの萎縮」と呼ばれる事態も、強権的な安倍政権にたじろいでいるという単純なものではなく、道理が引っ込み、液状化した社会に足を取られているというのが、情けなくはあるが、率直な実感だ。 ブレーキのない車のクラクションが鳴り響く社会。メディアが耳をふさいでやり過ごしてはならない。そしていま、この社会に生きる一人ひとりにも、できることはあるはずだ。」と、言うように安倍政権の威圧的な言動によって確実にマスコミは萎縮しています。
マスコミが萎縮してしまっているという一番の証拠が3月27日の報道ステーションでの古賀茂明氏降格事件です。そのほかテレビへの攻撃がすさまじく、特にNHKへの締め付けは完了しています。後残ったわずかな報道番組の唯一の官邸の意のままにならない「報道ステーション」を骨抜きにしようとする安倍政権の企みを成功させてしまったのです。このようなすさまじい官邸ンバッシングをこのまま許してしまえば、それこそ戦前のような言論統制社会へと逆戻りしてしまうでしょう。
勇気ある古賀茂明氏ひとりのたたかいにさせてはなりません。少しずつでも多くの記者やジャーナリストが一緒になって反撃することこそが重要です。そして、私たち市民の声も大切です。朝日新聞への購読による支援や電話やメールによる激励なども有効です。
安倍の暴言や攻撃には十倍返しで反撃しよう
私たちが安倍の暴言や攻撃に慣れてしまうことが一番危険です。私たちは毎日毎日安倍のバカ話を繰り返し耳に入れていたら、慣れてしまって、別に気にしなくなるかもしれません。「まあ、これくらいならいいか」という気のゆるみが、実は大敗につながっていくのです。歴史は「あのときが敗北の分水嶺だった」ということがよくあります。私たちは歴史の針を逆回りさせようとする安倍の攻撃に対して全くと言っていいほどやられっぱなしです。反撃などほとんどできてはいませんが、後で後悔するよりもいま、精一杯たたかって、子孫に負の歴史を残さないようにしましょう。できるだけの想像力を持って、明るく、安倍を笑い飛ばすようなユーモア溢れるたたかいで10倍返しの仕返しをしてやりましょう。
社説 安倍政権の激走
「いま」と「わたし」の大冒険
朝日新聞2015年3月29日
走る、曲がる、止まる。
これは自動車の基本性能だが、政治におきかえてみても、この三つのバランスは重要だ。
「この国会に求められていることは、単なる批判の応酬ではありません。行動です」
先の施政方針演説で、野党席の方を指しながらこう力を込めた安倍首相。確かに、政権の激走ぶりには目を見張るものがあり、ついエンジンの馬力やハンドルの傾きにばかり気をとられてしまうが、最も注視すべきは、ブレーキだろう。
■ここでないどこかへ
権力を縛る憲法。歴史の教訓。権力を持つものの自省と自制。メディアや野党による権力の批判的検証――。敗戦から70年の間、これらは日本政治のブレーキとして機能してきた。
しかし安倍政権やそれを支える自民党の一部は、ブレーキがあるからこの国の走りが悪くなっていると思い込んでいるようだ。「行動を起こせば批判にさらされる。過去も『日本が戦争に巻き込まれる』といった、ただ不安をあおろうとする無責任な言説が繰り返されてきた。批判が荒唐無稽であったことは、この70年の歴史が証明している」。防衛大学校の卒業式で、首相はこう訓示した。国会では自衛隊を「我が軍」と呼んだ。
「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」とは、ブレーキなんか邪魔だ、エンジン全開でぶっ飛ばすぜという冒険主義のことなのだろうか。
「いま」がすべて。どこに向かっているのか、なぜそんなに急ぐのか、危ないではないかと問うても、いまこの走りを見てくれ、こんなにアクセルを踏み込める政権はかつてなかっただろうと答えが返ってくる。とにかく前へ、ここではないどこかへと、いま必死に走っている最中なんだ、邪魔をするのかと、あらゆる批判をはねのける。
奇妙な論法が横行している。
■権力者のクラクション
「八紘一宇(はっこういちう)」。もともとは世界を一つの家とする、という意味だが、太平洋戦争中は日本の侵略を正当化する標語として使われた。自民党の三原じゅん子女性局長は先日の国会で、そのような歴史的文脈を捨象し「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と紹介した。
「わたし」を中心にものごとを都合よく把握し、他者の存在をまったく考慮に入れない。狭隘(きょうあい)かつ粗雑な世界観が、あちこちから漏れ出している。
首相は昨年、民放ニュース番組に出演し、テレビ局が「街の声」を「選んでいる」「おかしい」などと発言した。先日の国会で、報道への介入と言われても仕方ないと批判されると「言論の自由だ」と突っぱねた。
権力が抑圧してはならない個人の権利である「言論の自由」を権力者が振りかざすという倒錯。首相はさらに「私に議論を挑むと論破されるのを恐れたのかもしれない」「それくらいで萎縮してしまう人たちなのか。極めて情けない」とも述べた。
ひょっとして首相は、最高権力者であるという自覚を根っこのところで欠いているのではないか。巨大な車にクラクションを鳴らされたら、周囲が一瞬ひるんでしまうのは仕方ないだろう。だからこそ権力は国民をひるませないよう、抑制的に行使されねばならない。首相たるもの「いま」「わたし」の衝動に流されるべきではない。
情けないのは抑制や自制という権力の作法を身につけず、けたたましいクラクションを鳴らして走り回る首相の方である。
■不安社会とブレーキ
そうは言っても、安倍政権が激走を続けられるのは、社会の空気が、なんとなくそれを支えているからだろう。
長引く不況。中国の台頭。格差社会の深刻化。さらに東日本大震災、過激派組織「イスラム国」(IS)による人質事件などを経て、焦燥感や危機意識、何が不安なのかわからない不安がじわじわと根を張ってきた。
国ぐるみ一丸となって立ち向かわなければやられてしまう。国家が最高のパフォーマンスを発揮できるよう、政府の足を引っ張ってはいけない――。そんな気分が広がり、熟議よりもトップダウン、個人の権利や自由よりも国家や集団の都合が優先される社会を、知らずしらず招き寄せてはいないだろうか。
無理が通れば道理が引っ込む。「反日」「売国奴」。一丸になじまぬものを排撃する一方で、首相に対する批判はメディアのヘイトスピーチだという極めて稚拙な言説が飛び出す。
昨今「メディアの萎縮」と呼ばれる事態も、強権的な安倍政権にたじろいでいるという単純なものではなく、道理が引っ込み、液状化した社会に足を取られているというのが、情けなくはあるが、率直な実感だ。
ブレーキのない車のクラクションが鳴り響く社会。メディアが耳をふさいでやり過ごしてはならない。そしていま、この社会に生きる一人ひとりにも、できることはあるはずだ。
小坂正則
「3月29日の朝日新聞社説がいい」というFBの書き込みを見た私は、朝日の3月29日号を探したのですが見つかりませんでした。そしたら、今朝ひょんなところからでてきたのです。そして、読んでみたら確かに現在の安倍政権の暴走を批判する社説でした。ただ、残念ながら「安倍政権の激走」というちょっとしまりのない見出しでした。この見出しはどう考えても「安倍政権の暴走」でしょう。ここまで猛スピードで戦争へ突き進もうとしている政治手腕を暴走と言わずになんと言おうかと思ったのですが、そこまで気を遣う様ははやり朝日新聞だけが「暴走」してはまた官邸バッシングを受けかねないと心配してデスクが表現を柔らげるように配慮したのではないかと、私は勘ぐりました。
タイトルの弱々しさはさておき、三原じゅん子代議士のトチ狂った「八紘一宇(はっこういちう)」(世界を一つの家とする意味)という戦前の軍国主義ナショナリズムのスローガンを賛美する「ネトイウ」価値観を国会の場で堂々と披瀝するなどこれまでには考えられなかったことです。この代議士の頭に中には「日本の戦争責任」や「アジア侵略の責任」など微塵もないのでしょう。日本軍国主義政府はアジア侵略の大義名分として「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」というイデオロギーで国民を洗脳支配してきたのです。それを賛美するなど時代錯誤も甚だしくて、こんなニュースが海外配信されたらそれこそ日本人全体がそんなウルトラ右翼思想に染まっているかのように思われかねません。同じタレント議員でも山本太郎と偉い違いですね。
そのような負の歴史観が安倍政権になってから確実に復活しつつあるのです。そして安倍首相が国会で意識的に「わが軍」と言ったりしたことなども国民の意識の中に右傾化思想を植え付けて、9条改憲の必要性を慣れさせるという洗脳戦略なのでしょう。
安倍政権から朝日は「従軍慰安婦強制連行」批判で集中砲火を浴びせられた
「従軍慰安婦の強制連行誤報事件」という1つの新聞記事に対して、あれだ首相に名指しされて朝日新聞バッシングを受けてきたのですから、一人朝日新聞だけで跳ね返すのは無理があるでしょう。狭義の意味で石田証言が従軍慰安婦強制連行が誤報記事だったとしても、そんな誤報記事なんかいくらでもあるでしょう。その1つの記事を捕まえて鬼の首を取ったかのように有頂天なって、広義の意味での「強制連行」までもがなかったかのような言い方をする一国の首相があるでしょうか。「白馬事件」といわれる、インドネシアに日本軍が設置した従軍慰安婦施設はオランダ人女性を狭義の意味で「強制連行」して設置したというような事実を中曽根元首相自ら証言しているのです。若い女性に「いい仕事があるから来ないか」と、だまして戦地まで連れて行き、監禁状態の中で、女性が拒否して帰国する自由などあるはずがないのです。このように騙したり、強引に慰安婦を募集する行為などはだれが考えても「強制連行」そのものです。それを「強制連行とは銃を突き付けて拉致することで、そのような慰安婦狩りの証拠は見つかっていないから従軍慰安婦の強制連行はなかった」という反論など何の意味もありません。世界へそのような非論理的な反論をしたところで、日本の戦争責任や強制連行の罪が消えることなどないのです。それよりもきちんと歴史に向き合って、「戦前の日本が起こした過ちを二度と繰り返さない」と誓うことこそが、戦後70年の私たち日本人に最も必要なことなのではないでしょうか。
マスコミを萎縮させないたたかいこそが大事
しかし、朝日バッシングに対して、マスコミ各社は一致してこれに対抗しませんでした。
それどころか政府の御用新聞社の読売や産経は、ここぞとばかり、安倍と一緒になって朝日バッシングを行っていました。残念ながら良識あるはずの毎日新聞までが、新聞拡張戦争のために、朝日バッシングを毎日新聞拡張の絶好の材料とばかりに利用して、一緒に共闘して言論の自由を守るというたたかいをしなかったのです。ですから、朝日が一人安倍の執拗な攻撃にさらされてきたのです。
朝日新聞の社説の中で「昨今「メディアの萎縮」と呼ばれる事態も、強権的な安倍政権にたじろいでいるという単純なものではなく、道理が引っ込み、液状化した社会に足を取られているというのが、情けなくはあるが、率直な実感だ。 ブレーキのない車のクラクションが鳴り響く社会。メディアが耳をふさいでやり過ごしてはならない。そしていま、この社会に生きる一人ひとりにも、できることはあるはずだ。」と、言うように安倍政権の威圧的な言動によって確実にマスコミは萎縮しています。
マスコミが萎縮してしまっているという一番の証拠が3月27日の報道ステーションでの古賀茂明氏降格事件です。そのほかテレビへの攻撃がすさまじく、特にNHKへの締め付けは完了しています。後残ったわずかな報道番組の唯一の官邸の意のままにならない「報道ステーション」を骨抜きにしようとする安倍政権の企みを成功させてしまったのです。このようなすさまじい官邸ンバッシングをこのまま許してしまえば、それこそ戦前のような言論統制社会へと逆戻りしてしまうでしょう。
勇気ある古賀茂明氏ひとりのたたかいにさせてはなりません。少しずつでも多くの記者やジャーナリストが一緒になって反撃することこそが重要です。そして、私たち市民の声も大切です。朝日新聞への購読による支援や電話やメールによる激励なども有効です。
安倍の暴言や攻撃には十倍返しで反撃しよう
私たちが安倍の暴言や攻撃に慣れてしまうことが一番危険です。私たちは毎日毎日安倍のバカ話を繰り返し耳に入れていたら、慣れてしまって、別に気にしなくなるかもしれません。「まあ、これくらいならいいか」という気のゆるみが、実は大敗につながっていくのです。歴史は「あのときが敗北の分水嶺だった」ということがよくあります。私たちは歴史の針を逆回りさせようとする安倍の攻撃に対して全くと言っていいほどやられっぱなしです。反撃などほとんどできてはいませんが、後で後悔するよりもいま、精一杯たたかって、子孫に負の歴史を残さないようにしましょう。できるだけの想像力を持って、明るく、安倍を笑い飛ばすようなユーモア溢れるたたかいで10倍返しの仕返しをしてやりましょう。
社説 安倍政権の激走
「いま」と「わたし」の大冒険
朝日新聞2015年3月29日
走る、曲がる、止まる。
これは自動車の基本性能だが、政治におきかえてみても、この三つのバランスは重要だ。
「この国会に求められていることは、単なる批判の応酬ではありません。行動です」
先の施政方針演説で、野党席の方を指しながらこう力を込めた安倍首相。確かに、政権の激走ぶりには目を見張るものがあり、ついエンジンの馬力やハンドルの傾きにばかり気をとられてしまうが、最も注視すべきは、ブレーキだろう。
■ここでないどこかへ
権力を縛る憲法。歴史の教訓。権力を持つものの自省と自制。メディアや野党による権力の批判的検証――。敗戦から70年の間、これらは日本政治のブレーキとして機能してきた。
しかし安倍政権やそれを支える自民党の一部は、ブレーキがあるからこの国の走りが悪くなっていると思い込んでいるようだ。「行動を起こせば批判にさらされる。過去も『日本が戦争に巻き込まれる』といった、ただ不安をあおろうとする無責任な言説が繰り返されてきた。批判が荒唐無稽であったことは、この70年の歴史が証明している」。防衛大学校の卒業式で、首相はこう訓示した。国会では自衛隊を「我が軍」と呼んだ。
「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」とは、ブレーキなんか邪魔だ、エンジン全開でぶっ飛ばすぜという冒険主義のことなのだろうか。
「いま」がすべて。どこに向かっているのか、なぜそんなに急ぐのか、危ないではないかと問うても、いまこの走りを見てくれ、こんなにアクセルを踏み込める政権はかつてなかっただろうと答えが返ってくる。とにかく前へ、ここではないどこかへと、いま必死に走っている最中なんだ、邪魔をするのかと、あらゆる批判をはねのける。
奇妙な論法が横行している。
■権力者のクラクション
「八紘一宇(はっこういちう)」。もともとは世界を一つの家とする、という意味だが、太平洋戦争中は日本の侵略を正当化する標語として使われた。自民党の三原じゅん子女性局長は先日の国会で、そのような歴史的文脈を捨象し「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と紹介した。
「わたし」を中心にものごとを都合よく把握し、他者の存在をまったく考慮に入れない。狭隘(きょうあい)かつ粗雑な世界観が、あちこちから漏れ出している。
首相は昨年、民放ニュース番組に出演し、テレビ局が「街の声」を「選んでいる」「おかしい」などと発言した。先日の国会で、報道への介入と言われても仕方ないと批判されると「言論の自由だ」と突っぱねた。
権力が抑圧してはならない個人の権利である「言論の自由」を権力者が振りかざすという倒錯。首相はさらに「私に議論を挑むと論破されるのを恐れたのかもしれない」「それくらいで萎縮してしまう人たちなのか。極めて情けない」とも述べた。
ひょっとして首相は、最高権力者であるという自覚を根っこのところで欠いているのではないか。巨大な車にクラクションを鳴らされたら、周囲が一瞬ひるんでしまうのは仕方ないだろう。だからこそ権力は国民をひるませないよう、抑制的に行使されねばならない。首相たるもの「いま」「わたし」の衝動に流されるべきではない。
情けないのは抑制や自制という権力の作法を身につけず、けたたましいクラクションを鳴らして走り回る首相の方である。
■不安社会とブレーキ
そうは言っても、安倍政権が激走を続けられるのは、社会の空気が、なんとなくそれを支えているからだろう。
長引く不況。中国の台頭。格差社会の深刻化。さらに東日本大震災、過激派組織「イスラム国」(IS)による人質事件などを経て、焦燥感や危機意識、何が不安なのかわからない不安がじわじわと根を張ってきた。
国ぐるみ一丸となって立ち向かわなければやられてしまう。国家が最高のパフォーマンスを発揮できるよう、政府の足を引っ張ってはいけない――。そんな気分が広がり、熟議よりもトップダウン、個人の権利や自由よりも国家や集団の都合が優先される社会を、知らずしらず招き寄せてはいないだろうか。
無理が通れば道理が引っ込む。「反日」「売国奴」。一丸になじまぬものを排撃する一方で、首相に対する批判はメディアのヘイトスピーチだという極めて稚拙な言説が飛び出す。
昨今「メディアの萎縮」と呼ばれる事態も、強権的な安倍政権にたじろいでいるという単純なものではなく、道理が引っ込み、液状化した社会に足を取られているというのが、情けなくはあるが、率直な実感だ。
ブレーキのない車のクラクションが鳴り響く社会。メディアが耳をふさいでやり過ごしてはならない。そしていま、この社会に生きる一人ひとりにも、できることはあるはずだ。
by nonukes
| 2015-04-07 13:42
| マスコミと原発
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