2014年 07月 08日
「ポスト資本主義社会」は社会主義でも資本主義でもなく持続可能な共生社会か
「ポスト資本主義社会」は社会主義でも資本主義でもなく持続可能な共生社会か
小坂正則
もはや国家が経済をコントロール出来なくなった
先日、フェイスブックで「世界一貧しい大統領の演説」という動画に出会ったのです。ウルグアイのムヒカ大統領が2012年にリオサミットで演説した動画です。(一番上の動画です)その中で、ムヒカ氏は「ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?」と問いかけているのです。また氏は「マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。」と。
また次のようにも言っています。「このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。」
だから「マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。」と言っているのです。
最後に「昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」と。
金融工学によって作られた様々な「金融商品」が資本主義を破壊する
1800年代終わり頃から始まった産業革命により生産力が一気に拡大して、大量生産と大量消費社会へ人類史上初めての世界に突入しました。その基礎を担ったものは国家主導による市場経済という名の資本主義経済です。この仕組みは実にうまくできていて、国家の軍事力に守られた投資家が欲望を満たすために産業や商業は海外に拡大して行き、彼らは世界中に原料と市場を求めてアジア・アフリカ・ラテンアメリカを植民地化したのです。しかし、囲い込みの植民地経済は第二次世界大戦で終わり、現代は米国の軍事力に守られた米国中心のグローバル企業が世界中の国家を支配するような時代になったのです。
米国と米国を中心とした多国籍企業が世界を支配するという構造は大きな矛盾を孕みながらも今日まで続いています。
資本主義とは企業の発行す株券を投資家は配当を目当てに購入し、その配当で利益を得る仕組みです。しかし、企業が倒産したら株券は紙切れになってしまうというリスクが付いている信用取引なのです。もう一つ大きなものに金融商品があります。これは「利息」や「金利」という制度です。金融商品や株取引などを支えている「通貨」は交換手段として金や銀などに変わるものとして生まれたものです。各国の発行する通貨は金と交換できるという約束(兌換紙幣という)があったから信用を保っていたのです。しかし、金を通貨発行分だけ政府が保管していなければならないという責任から逃れるために、兌換紙幣を廃止して「不換紙幣」へと移行した後も、米国ドルだけは世界通貨としての信頼を保つために戦後も一貫して「兌換紙幣」を維持していました。1971年、米国のニクソン大統領はドルの兌換紙幣を廃止してしまって、いわゆるニクソンショックとなり、各国との通貨の価値が市場で日々取り引きされる為替相場で決まるようになったのです。
つまり現代では「通貨」は国家の信用のみに支えられた交換手段であって、その価値は日々変動する1つの金融商品と化してしまいました。
通貨はむやみやたらと発行すれば、その価値は暴落します。各国の通貨は為替相場という競争に晒されているからですが、FXなどの金融商品や先物取引という商品は実際の取引が行われる必要のない、架空の取引です。もちろん実際に行われる取引を背景にしているのですが、その10倍も100倍もの取引が行われるというものです。
また、2008年に起こった米国発のリーマンショックで、不動産を担保としたサブプライムローンという金融工学によって作られた複雑な金融商品は実体が見えなくくなった分だけ不安定性が増して、それが一気に破綻して世界金融恐慌が起こったのです。いうならば、これらの金融商品は「ネズミ講」に似た実体のないマネーゲームだったのです。
実に不思議なもので資本主義が発展したら社会主義への移行するというマルクス・エンゲルスの予測は実現しなかったのですが、20世紀後半には社会主義が資本主義よりも先に破綻してしまい、資本主義社会が絶対的な力で地球上を支配しているように思われていたのですが、残念ながらマルクスのいう弁証法の概念は社会主義社会ではなく、資本主義に変わる新たな社会制度(それが何かは私にはまだ分かりませんが)を生み出そうと模索しているのではないかと私は思うのです。
ポスト資本主義とは
つまり、資本主義が国家や人びとの手ではコントロールできなくなってしまった現状では、このまま手をこまねいて見ているわけには行きません。何らかの手だてが必要です。しかし、そのめざすべき方向や方法を誰も明確に導き出せないでいるのだと思います。ただ、ここで言えることはいろいろあるでしょう。
1つはマルクス・エンゲルスの時代のように地球が人類にとって限りなく無限の存在だった18世紀の時代は終わり、地球は小さな「宇宙船地球号」だという説です。そして私の師である槌田敦氏は「地球の熱収支は定常開放系」だというエントロピー理論で地球の熱収支理論を説明しました。もはや地球は化石燃料などの廃熱やゴミを無限に捨て続けることは出来ないのです。地球の持っている宇宙との熱交換を上回る化石燃料の使用や産業の発展は地球の許容量を越えているのです。
2成長の限界という説です。「成長の限界(せいちょうのげんかい)とは、ローマクラブが資源と地球の有限性に着目し、マサチューセッツ工科大学のデニス・メドウズを主査とする国際チームに委託して、システムダイナミクスの手法を使用してとりまとめた研究で、1972年に発表された。「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」と警鐘を鳴らしている。」(ウィキペディアより)
もはや人類は成長の限界に達しつつあるという説を1972年には発表しているのです。この年に中津の作家松下竜一氏は「暗闇の思想」を書きます。また、1977年に出版されたエイモリーロビンスの著書「ソフト・エネルギーパス」もハードエネルギーに頼って社会はやがて破綻しソフトエネルギーへシフトしなければ人類は生き延びることは出来ないと語っているのです。これらの説にあるように無限の経済成長や無限の資本の増加などは地球が有限な物体である以上、どこかで頭打ちしてしまうという現実を人類は自覚しなければならないのではないでしょうか。資本主義社会の限界や終わりは必ず訪れるのです。
3地球の許容量の限界が経済の発展や拡大の限界があることを示しているし、それは地球温暖化などの問題や化石エネルギーの枯渇の問題などから理解できることでしょう。それでは成長の限界は理解できたとして、資本主義の何に問題があるのかという問いが出てきます。その説明をシルビオ・ゲゼルはこう説明している。「彼の主著『自然的経済秩序』では、あらゆるものが減価するのに通貨だけが減価しないために金利が正当化され、ある程度以上の資産家が金利生活者としてのらりくらり生きている現状を問題視し、これを解決するために自由貨幣、具体的には「スタンプ貨幣」という仕組みを提案した。これは一定の期間ごと(1週間あるいは1月)に紙幣に一定額のスタンプを貼ることを使用の条件とすることで通貨の退蔵を防ぎ、流通を促進させ貸出金利を下げるのが目的である。他に、男性に経済的に依存することなく女性が子育てに専念できるようにするための、自由土地の思想に基づいた母親年金も提唱している。」(ウィキペディアより)
このゲゼルの経済理論を実施したオーストリアの小さな町ヴェルグルが第一次世界大戦後の不況を脱出するために1932年7月末に「労働証明書」という地域通貨を作成し、その地域通貨を町内で税金も納められるようにしたら、アッという間にこの地域通貨が町内を駆けめぐるようになって町は経済的な復興を遂げることが出来たというのです。その理由は月が越えると1%のスタンプを張らなければ使えないという仕組みを作ったのです。それが「劣化する貨幣」または「減価する貨幣」という仕組みです。しかし、1年半後に政府がこの地域通貨の流通を禁止したため、わずか1年半で、このすばらしい実験は終わりました。
絵本作家のミヒャイルエンデは社会の貧困や環境破壊など様々な経済的な矛盾はお金が利息を生み、お金だけが劣化しないで価値を増殖し続けることにあるといいます。
だからエンデは劣化する貨幣や、劣化しないけど金利を生まない貨幣として「地域通貨」のなど重要性を指摘したのです。
人びとの欲望は理性で抑えられるか
お金は様々な社会の矛盾を反映していると「エンデの遺言」でミヒャイルエンデは説いています。お金に理性を持たせなければならないとも話しています。昔は町の中心に神殿や教会立ち人々はそれらを崇めていた。しかし現代は都市の中心に銀行がそびえ立ち、お金が神を越える奇跡を起こすことが出来ると人々は崇め立てている。お金が人類にとって絶対的な神以上の存在となったと。しかし、この世のものは全て寿命があり有限のものだが、お金だけは永遠に存在すると人々は信じている。しかし人が作ったものに永遠などない。
ポスト資本主義を考えるには、成長の限界を経済社会の中でも人々は理解しなければならばならない。そして人々の欲望も無限には実現しないものだという現実を理解しなければならない。
ここに1つのヒントがあります。それは1970年はじめに石油危機によって経済成長が止まって日本もマイナス経済成長社会に突入した時のことです。その時、川崎の清掃課の担当者から聞いた話なのですが、家庭ゴミが減ったというのです。そしてキャベツの値段が上がったら、家庭ゴミの中からキャベツの葉っぱが姿を消すというのです。
またこんな事例もあります。漁協の組合員はいつでも好きなだけ漁を出来るわけではありません。漁期が決まっています。みんが取り尽くしたらアワビやサザエなどは消滅してしまいます。だから消滅の危機を全員が納得したら漁を自主規制するようになるのです。それを人々は「不自由」だとは感じません。なぜなら自分だけが「不自由」ではないからです。みんなも同じように我慢していたら、誰も不自由とは感じないのです。
経済も同じことが言えるでしょう。多国籍企業への法人税の課税なども世界中で一律にしてどこでも課税逃れをさせない共通の仕組みを作れば課税逃れのペーパーカンパニーなどという脱税企業は現れないのです。また、マネーゲームのような金融商品は規制すべきですし、また金利をなくすことが不可能でも世界中で金利へ相当額の課税を行えば税金逃れやブラックマネーなどの闇金融を捕捉出来るでしょう。
つまり、人々の欲望は理性だけでは抑えられませんが、社会的ルールで抑えることは可能なのです。問題はそのルールを1日も早く各国の利害を調整して、大国の利害を一方的に押しつけるのではなく、小国の独立を守る制度となるような仕組みを作り出すことでしょう。(続く)
ムヒカ大統領の衝撃的なスピーチ【世界で最も貧乏な大統領】
エンデノ遺言
続エンデノ遺言
ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ
(訳:打村明)
会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。
ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。
しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?
質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。
息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?
なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?
マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。
現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。
ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。
このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。
石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。
昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています
「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。
根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。
私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。
私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。
そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。
幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。
ありがとうございました。
小坂正則
もはや国家が経済をコントロール出来なくなった
先日、フェイスブックで「世界一貧しい大統領の演説」という動画に出会ったのです。ウルグアイのムヒカ大統領が2012年にリオサミットで演説した動画です。(一番上の動画です)その中で、ムヒカ氏は「ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?」と問いかけているのです。また氏は「マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。」と。
また次のようにも言っています。「このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。」
だから「マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。」と言っているのです。
最後に「昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」と。
金融工学によって作られた様々な「金融商品」が資本主義を破壊する
1800年代終わり頃から始まった産業革命により生産力が一気に拡大して、大量生産と大量消費社会へ人類史上初めての世界に突入しました。その基礎を担ったものは国家主導による市場経済という名の資本主義経済です。この仕組みは実にうまくできていて、国家の軍事力に守られた投資家が欲望を満たすために産業や商業は海外に拡大して行き、彼らは世界中に原料と市場を求めてアジア・アフリカ・ラテンアメリカを植民地化したのです。しかし、囲い込みの植民地経済は第二次世界大戦で終わり、現代は米国の軍事力に守られた米国中心のグローバル企業が世界中の国家を支配するような時代になったのです。
米国と米国を中心とした多国籍企業が世界を支配するという構造は大きな矛盾を孕みながらも今日まで続いています。
資本主義とは企業の発行す株券を投資家は配当を目当てに購入し、その配当で利益を得る仕組みです。しかし、企業が倒産したら株券は紙切れになってしまうというリスクが付いている信用取引なのです。もう一つ大きなものに金融商品があります。これは「利息」や「金利」という制度です。金融商品や株取引などを支えている「通貨」は交換手段として金や銀などに変わるものとして生まれたものです。各国の発行する通貨は金と交換できるという約束(兌換紙幣という)があったから信用を保っていたのです。しかし、金を通貨発行分だけ政府が保管していなければならないという責任から逃れるために、兌換紙幣を廃止して「不換紙幣」へと移行した後も、米国ドルだけは世界通貨としての信頼を保つために戦後も一貫して「兌換紙幣」を維持していました。1971年、米国のニクソン大統領はドルの兌換紙幣を廃止してしまって、いわゆるニクソンショックとなり、各国との通貨の価値が市場で日々取り引きされる為替相場で決まるようになったのです。
つまり現代では「通貨」は国家の信用のみに支えられた交換手段であって、その価値は日々変動する1つの金融商品と化してしまいました。
通貨はむやみやたらと発行すれば、その価値は暴落します。各国の通貨は為替相場という競争に晒されているからですが、FXなどの金融商品や先物取引という商品は実際の取引が行われる必要のない、架空の取引です。もちろん実際に行われる取引を背景にしているのですが、その10倍も100倍もの取引が行われるというものです。
また、2008年に起こった米国発のリーマンショックで、不動産を担保としたサブプライムローンという金融工学によって作られた複雑な金融商品は実体が見えなくくなった分だけ不安定性が増して、それが一気に破綻して世界金融恐慌が起こったのです。いうならば、これらの金融商品は「ネズミ講」に似た実体のないマネーゲームだったのです。
実に不思議なもので資本主義が発展したら社会主義への移行するというマルクス・エンゲルスの予測は実現しなかったのですが、20世紀後半には社会主義が資本主義よりも先に破綻してしまい、資本主義社会が絶対的な力で地球上を支配しているように思われていたのですが、残念ながらマルクスのいう弁証法の概念は社会主義社会ではなく、資本主義に変わる新たな社会制度(それが何かは私にはまだ分かりませんが)を生み出そうと模索しているのではないかと私は思うのです。
ポスト資本主義とは
つまり、資本主義が国家や人びとの手ではコントロールできなくなってしまった現状では、このまま手をこまねいて見ているわけには行きません。何らかの手だてが必要です。しかし、そのめざすべき方向や方法を誰も明確に導き出せないでいるのだと思います。ただ、ここで言えることはいろいろあるでしょう。
1つはマルクス・エンゲルスの時代のように地球が人類にとって限りなく無限の存在だった18世紀の時代は終わり、地球は小さな「宇宙船地球号」だという説です。そして私の師である槌田敦氏は「地球の熱収支は定常開放系」だというエントロピー理論で地球の熱収支理論を説明しました。もはや地球は化石燃料などの廃熱やゴミを無限に捨て続けることは出来ないのです。地球の持っている宇宙との熱交換を上回る化石燃料の使用や産業の発展は地球の許容量を越えているのです。
2成長の限界という説です。「成長の限界(せいちょうのげんかい)とは、ローマクラブが資源と地球の有限性に着目し、マサチューセッツ工科大学のデニス・メドウズを主査とする国際チームに委託して、システムダイナミクスの手法を使用してとりまとめた研究で、1972年に発表された。「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」と警鐘を鳴らしている。」(ウィキペディアより)
もはや人類は成長の限界に達しつつあるという説を1972年には発表しているのです。この年に中津の作家松下竜一氏は「暗闇の思想」を書きます。また、1977年に出版されたエイモリーロビンスの著書「ソフト・エネルギーパス」もハードエネルギーに頼って社会はやがて破綻しソフトエネルギーへシフトしなければ人類は生き延びることは出来ないと語っているのです。これらの説にあるように無限の経済成長や無限の資本の増加などは地球が有限な物体である以上、どこかで頭打ちしてしまうという現実を人類は自覚しなければならないのではないでしょうか。資本主義社会の限界や終わりは必ず訪れるのです。
3地球の許容量の限界が経済の発展や拡大の限界があることを示しているし、それは地球温暖化などの問題や化石エネルギーの枯渇の問題などから理解できることでしょう。それでは成長の限界は理解できたとして、資本主義の何に問題があるのかという問いが出てきます。その説明をシルビオ・ゲゼルはこう説明している。「彼の主著『自然的経済秩序』では、あらゆるものが減価するのに通貨だけが減価しないために金利が正当化され、ある程度以上の資産家が金利生活者としてのらりくらり生きている現状を問題視し、これを解決するために自由貨幣、具体的には「スタンプ貨幣」という仕組みを提案した。これは一定の期間ごと(1週間あるいは1月)に紙幣に一定額のスタンプを貼ることを使用の条件とすることで通貨の退蔵を防ぎ、流通を促進させ貸出金利を下げるのが目的である。他に、男性に経済的に依存することなく女性が子育てに専念できるようにするための、自由土地の思想に基づいた母親年金も提唱している。」(ウィキペディアより)
このゲゼルの経済理論を実施したオーストリアの小さな町ヴェルグルが第一次世界大戦後の不況を脱出するために1932年7月末に「労働証明書」という地域通貨を作成し、その地域通貨を町内で税金も納められるようにしたら、アッという間にこの地域通貨が町内を駆けめぐるようになって町は経済的な復興を遂げることが出来たというのです。その理由は月が越えると1%のスタンプを張らなければ使えないという仕組みを作ったのです。それが「劣化する貨幣」または「減価する貨幣」という仕組みです。しかし、1年半後に政府がこの地域通貨の流通を禁止したため、わずか1年半で、このすばらしい実験は終わりました。
絵本作家のミヒャイルエンデは社会の貧困や環境破壊など様々な経済的な矛盾はお金が利息を生み、お金だけが劣化しないで価値を増殖し続けることにあるといいます。
だからエンデは劣化する貨幣や、劣化しないけど金利を生まない貨幣として「地域通貨」のなど重要性を指摘したのです。
人びとの欲望は理性で抑えられるか
お金は様々な社会の矛盾を反映していると「エンデの遺言」でミヒャイルエンデは説いています。お金に理性を持たせなければならないとも話しています。昔は町の中心に神殿や教会立ち人々はそれらを崇めていた。しかし現代は都市の中心に銀行がそびえ立ち、お金が神を越える奇跡を起こすことが出来ると人々は崇め立てている。お金が人類にとって絶対的な神以上の存在となったと。しかし、この世のものは全て寿命があり有限のものだが、お金だけは永遠に存在すると人々は信じている。しかし人が作ったものに永遠などない。
ポスト資本主義を考えるには、成長の限界を経済社会の中でも人々は理解しなければならばならない。そして人々の欲望も無限には実現しないものだという現実を理解しなければならない。
ここに1つのヒントがあります。それは1970年はじめに石油危機によって経済成長が止まって日本もマイナス経済成長社会に突入した時のことです。その時、川崎の清掃課の担当者から聞いた話なのですが、家庭ゴミが減ったというのです。そしてキャベツの値段が上がったら、家庭ゴミの中からキャベツの葉っぱが姿を消すというのです。
またこんな事例もあります。漁協の組合員はいつでも好きなだけ漁を出来るわけではありません。漁期が決まっています。みんが取り尽くしたらアワビやサザエなどは消滅してしまいます。だから消滅の危機を全員が納得したら漁を自主規制するようになるのです。それを人々は「不自由」だとは感じません。なぜなら自分だけが「不自由」ではないからです。みんなも同じように我慢していたら、誰も不自由とは感じないのです。
経済も同じことが言えるでしょう。多国籍企業への法人税の課税なども世界中で一律にしてどこでも課税逃れをさせない共通の仕組みを作れば課税逃れのペーパーカンパニーなどという脱税企業は現れないのです。また、マネーゲームのような金融商品は規制すべきですし、また金利をなくすことが不可能でも世界中で金利へ相当額の課税を行えば税金逃れやブラックマネーなどの闇金融を捕捉出来るでしょう。
つまり、人々の欲望は理性だけでは抑えられませんが、社会的ルールで抑えることは可能なのです。問題はそのルールを1日も早く各国の利害を調整して、大国の利害を一方的に押しつけるのではなく、小国の独立を守る制度となるような仕組みを作り出すことでしょう。(続く)
ムヒカ大統領の衝撃的なスピーチ【世界で最も貧乏な大統領】
エンデノ遺言
続エンデノ遺言
ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ
(訳:打村明)
会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。
ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。
しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?
質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。
息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?
なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?
マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。
現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。
ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。
このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。
石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。
昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています
「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。
根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。
私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。
私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。
そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。
幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。
ありがとうございました。
by nonukes
| 2014-07-08 17:35
| 小坂農園 薪ストーブ物語
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