2014年 06月 23日
個人と組織の対立をどのようにして克服するか 私論1
個人と組織の対立をどのようにして克服するか 私論1
小坂正則
ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州選挙での歴史的勝利を喜ぶ緑の党支持者
若者を「緑の党」に誘うには「組織アレルギー」がネックという問題
昨日の「緑の党おおいた」の会議で出た議論の中で、「組織拡大のターゲットは女性と若者」という意見に皆さん同意してくれました。その通りなのですが、「若者の党への拒否反応が大きい」という意見が出たのです。これは若者に限らず日本人は「党」というと「秘密結社」や「過激派」や「共産党」という、マイナーなイメージが植え付けられていて、そのイメージを払拭するのは大変難しいことのようです。日本では「党」や「政治活動」などや「選挙」や「投票」さえもが暗いイメージで、若者の政治への関心がどんどん希薄になってきているようなのです。これを「国家権力による誘導策だ」とか「マスコミによる情報操作が行われている」とまでは言いませんが、なにがしかの権力の意図を感じるのは私だけではないような気がします。
民主党政権下で「第三極」ともてはやされた「維新の会」や「みんなの党」が「第三極」ではないことは誰でも分かり切ったことだったのに。あれはマスコミによる民主党政権切り崩し作戦だったと私は確信しています。
ですから、見えない大きな力によって操作される世論という流れに抵抗しながらも、ドイツのように「政治」が当たり前に若者の間で議論されて、「緑の党」が普通に流行になるような。そのような「民衆の文化」を私たちは作り出さなければならないのです。そのために何が必要で何が不足しているのかという現状分析をしたいと思います。
ドイツの緑の党は
ドイツの緑の党は30年以上の長い歴史があって、それは反原発運動と環境保護運動という左翼的な運動と右翼的な運動の歴史が一緒になって出来た政党だと私は聞いています。そのような長い地道な活動の積み重ねで出来た組織と、一朝一夕に出来たミニ政党が同じような評価を受けるはずはないのですが、そこから学ぶことはたくさんあるでしょう。また、ドイツの緑の党はマスコミを巧みに利用していたように私には思えます。「広報活動」の重要性です。デモをするにもコスチュームを着飾って、家族的な楽しい雰囲気を醸し出すような努力も重ねています。このような世論を意識した行動をもっと巧みに行うべきでしょう。でも、そのような表現方法は本質的な若者と組織という問題の解決策ではないような気がします。
ミッションとマネージメント
ピータードラッガー氏は「全ての組織にはミッションがなければならない」というようなことを言っていたような気がします。企業にもミッション(使命)が必要だとドラッガーは話しています。組織の一員である社員や党員が上からの命令で「働かされている」と感じるのに対して、自分は1つの使命のための「働いている」のだと感じるのとでは大きな心の持ち方の違いなのです。「自らが使命を持って働いている」と思うことによって、同じ仕事の充実感と達成感が違うのです。私はこれまでNGOやNPOで様々なイベントなどを行ってきました。そこに参加するたくさんの人たちが、ある人は主催者として汗水流して働いていて、ある人はお客さんとして参加していて、不平不満を言う人がいます。しかし、主催者として無報酬で裏方を引き受けて、走り回って仕事をしていて、肝心のイベントを見ることも出来なかったのに、そのイベントが終わった後に、楽しそうにしているスタッフが必ずいるのです。それは「ミッション」を自覚しているかいないかの違いなのでしょう。つまり、組織というものは常にミッションを共有することで、参加者が主人公となれるのです。しかし、ただ「主人公」と信じ込ませればいいという問題でもありません。実際に個々の社員がどのように「主人公」や「主体者」として自覚できるような条件や環境を作り上げることが指導者に出来るか、マネージメントを担う者の重要な役割なのです。
参加民主主義とはどうあるべきなのか
組織というものは必ず何らかのピラミッド方の組織図になると思います。少数のグループだったら、皆平等という原理もあり得ますが、少し大きくなって、そこにお金や責任体制が必要になれば多かれ少なかれ、代議制などのピラミッド形になるのは仕方ないことでしょう。しかし、1つには、そのピラミッドの高さが問題なのだと思います。垂直にそびえ立った組織か、ちょっとだけ中央が盛り上がった組織かは大きな違いがあると思うのです。2つ目に、絶対服従の上下関係か、上下が自由に入れ替わるような弾力的な組織かは大きな違いがあるでしょう。3つ目に組織の長や権力を持った者が「特権階級」として君臨し、「偉い者」として特別扱いされるのか、権力を持っていても、普段の生活や会議などでは平場で対等に議論できるのかなどは大きな違いです。よく、国会議員を来賓として祭り上げるような場面がありますが、国会議員が偉いのではなく、彼は国会では重要な仕事をする頼もしい人間かもしれませんが、市民集会などでは1人の参加者でしかないのです。権力者や学者を崇め立てる風潮は、逆に蔑まされるべき人を作り出すのです。このことは男女の関係にも言えます。絶対平等という組織は無理だとしても、限りなく平等な組織を作り出すことが、個々人が組織の主人公として共通のミッションを持って、一緒に汗を流すことに努力する組織を作り出すことが出来るのでしょう。
権力が集中する指導者がいたとしても金銭など全ての面で「特権階級」は絶対に作らない。これが「緑の党」の組織運営の重要な柱だと思います。
1人は全体のために、全体は1人のために
このように考えたら、組織の中に個を見い出して、個と組織という対立軸を自らのなかに内包出来る人間は個と組織という対立概念を止揚できるのだと思います。組織の長として君臨している者は「個対組織」という対立概念は生まれません。自らがその組織を動かしているという充実感があるからです。しかし、一社員や一党員となればそれは不可能なことが多いでしょう。いくら自分が正しい判断をして、上層部に進言しても受け入れらないことは多々あるからです。そこに疎外感やミッションを持っている自分に疑問や疑念が生じてくるのです。しかし、組織の中で、全体の中に個があり、個の中に全体があるという概念を生むしか方法はないように思います。それは「般若心経」がいう「色即是空 空即是色」という概念に似ているのかもしれません。
つまり、私たちの組織論は「1人は全体のために、全体は1人のために」というように相対立する矛盾が止揚されて高次の概念を作り出すということを繰り返して成長する組織でなければならないのでしょう。つまり若者や女性を1人の個人としての尊厳を持って受け入れて、組織の中で自由な議論と彼らの主張が繁栄される仕組みを確立し、自らが考え行動できて、そこから互いの個人を尊重する組織のあり方を学習してもらうのです。そこで初めて個人と組織の対立を越える自我や理念が確立するのではないでしょうか。
結論としては「緑の党は党であって党ではない」や「緑は政党ではなく生き方です」というキャッチコピーが必然的に生まれてくるのだと思います。
小坂正則
ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州選挙での歴史的勝利を喜ぶ緑の党支持者
若者を「緑の党」に誘うには「組織アレルギー」がネックという問題
昨日の「緑の党おおいた」の会議で出た議論の中で、「組織拡大のターゲットは女性と若者」という意見に皆さん同意してくれました。その通りなのですが、「若者の党への拒否反応が大きい」という意見が出たのです。これは若者に限らず日本人は「党」というと「秘密結社」や「過激派」や「共産党」という、マイナーなイメージが植え付けられていて、そのイメージを払拭するのは大変難しいことのようです。日本では「党」や「政治活動」などや「選挙」や「投票」さえもが暗いイメージで、若者の政治への関心がどんどん希薄になってきているようなのです。これを「国家権力による誘導策だ」とか「マスコミによる情報操作が行われている」とまでは言いませんが、なにがしかの権力の意図を感じるのは私だけではないような気がします。
民主党政権下で「第三極」ともてはやされた「維新の会」や「みんなの党」が「第三極」ではないことは誰でも分かり切ったことだったのに。あれはマスコミによる民主党政権切り崩し作戦だったと私は確信しています。
ですから、見えない大きな力によって操作される世論という流れに抵抗しながらも、ドイツのように「政治」が当たり前に若者の間で議論されて、「緑の党」が普通に流行になるような。そのような「民衆の文化」を私たちは作り出さなければならないのです。そのために何が必要で何が不足しているのかという現状分析をしたいと思います。
ドイツの緑の党は
ドイツの緑の党は30年以上の長い歴史があって、それは反原発運動と環境保護運動という左翼的な運動と右翼的な運動の歴史が一緒になって出来た政党だと私は聞いています。そのような長い地道な活動の積み重ねで出来た組織と、一朝一夕に出来たミニ政党が同じような評価を受けるはずはないのですが、そこから学ぶことはたくさんあるでしょう。また、ドイツの緑の党はマスコミを巧みに利用していたように私には思えます。「広報活動」の重要性です。デモをするにもコスチュームを着飾って、家族的な楽しい雰囲気を醸し出すような努力も重ねています。このような世論を意識した行動をもっと巧みに行うべきでしょう。でも、そのような表現方法は本質的な若者と組織という問題の解決策ではないような気がします。
ミッションとマネージメント
ピータードラッガー氏は「全ての組織にはミッションがなければならない」というようなことを言っていたような気がします。企業にもミッション(使命)が必要だとドラッガーは話しています。組織の一員である社員や党員が上からの命令で「働かされている」と感じるのに対して、自分は1つの使命のための「働いている」のだと感じるのとでは大きな心の持ち方の違いなのです。「自らが使命を持って働いている」と思うことによって、同じ仕事の充実感と達成感が違うのです。私はこれまでNGOやNPOで様々なイベントなどを行ってきました。そこに参加するたくさんの人たちが、ある人は主催者として汗水流して働いていて、ある人はお客さんとして参加していて、不平不満を言う人がいます。しかし、主催者として無報酬で裏方を引き受けて、走り回って仕事をしていて、肝心のイベントを見ることも出来なかったのに、そのイベントが終わった後に、楽しそうにしているスタッフが必ずいるのです。それは「ミッション」を自覚しているかいないかの違いなのでしょう。つまり、組織というものは常にミッションを共有することで、参加者が主人公となれるのです。しかし、ただ「主人公」と信じ込ませればいいという問題でもありません。実際に個々の社員がどのように「主人公」や「主体者」として自覚できるような条件や環境を作り上げることが指導者に出来るか、マネージメントを担う者の重要な役割なのです。
参加民主主義とはどうあるべきなのか
組織というものは必ず何らかのピラミッド方の組織図になると思います。少数のグループだったら、皆平等という原理もあり得ますが、少し大きくなって、そこにお金や責任体制が必要になれば多かれ少なかれ、代議制などのピラミッド形になるのは仕方ないことでしょう。しかし、1つには、そのピラミッドの高さが問題なのだと思います。垂直にそびえ立った組織か、ちょっとだけ中央が盛り上がった組織かは大きな違いがあると思うのです。2つ目に、絶対服従の上下関係か、上下が自由に入れ替わるような弾力的な組織かは大きな違いがあるでしょう。3つ目に組織の長や権力を持った者が「特権階級」として君臨し、「偉い者」として特別扱いされるのか、権力を持っていても、普段の生活や会議などでは平場で対等に議論できるのかなどは大きな違いです。よく、国会議員を来賓として祭り上げるような場面がありますが、国会議員が偉いのではなく、彼は国会では重要な仕事をする頼もしい人間かもしれませんが、市民集会などでは1人の参加者でしかないのです。権力者や学者を崇め立てる風潮は、逆に蔑まされるべき人を作り出すのです。このことは男女の関係にも言えます。絶対平等という組織は無理だとしても、限りなく平等な組織を作り出すことが、個々人が組織の主人公として共通のミッションを持って、一緒に汗を流すことに努力する組織を作り出すことが出来るのでしょう。
権力が集中する指導者がいたとしても金銭など全ての面で「特権階級」は絶対に作らない。これが「緑の党」の組織運営の重要な柱だと思います。
1人は全体のために、全体は1人のために
このように考えたら、組織の中に個を見い出して、個と組織という対立軸を自らのなかに内包出来る人間は個と組織という対立概念を止揚できるのだと思います。組織の長として君臨している者は「個対組織」という対立概念は生まれません。自らがその組織を動かしているという充実感があるからです。しかし、一社員や一党員となればそれは不可能なことが多いでしょう。いくら自分が正しい判断をして、上層部に進言しても受け入れらないことは多々あるからです。そこに疎外感やミッションを持っている自分に疑問や疑念が生じてくるのです。しかし、組織の中で、全体の中に個があり、個の中に全体があるという概念を生むしか方法はないように思います。それは「般若心経」がいう「色即是空 空即是色」という概念に似ているのかもしれません。
つまり、私たちの組織論は「1人は全体のために、全体は1人のために」というように相対立する矛盾が止揚されて高次の概念を作り出すということを繰り返して成長する組織でなければならないのでしょう。つまり若者や女性を1人の個人としての尊厳を持って受け入れて、組織の中で自由な議論と彼らの主張が繁栄される仕組みを確立し、自らが考え行動できて、そこから互いの個人を尊重する組織のあり方を学習してもらうのです。そこで初めて個人と組織の対立を越える自我や理念が確立するのではないでしょうか。
結論としては「緑の党は党であって党ではない」や「緑は政党ではなく生き方です」というキャッチコピーが必然的に生まれてくるのだと思います。
by nonukes
| 2014-06-23 10:17
| 「緑の党」をつくろう!
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