2014年 05月 17日
ドイツのミランダシュラーズさんのお話を聞いてきました「今こそ緑の党を」
ドイツのミランダシュラーズさんのお話を聞いてきました「今こそ緑の党を」
小坂正則
「緑の党」党首のペトラケリーさんがデモで逮捕されたときのマスコミの写真
昨日、大分市で社民党と平和センター主催の「脱原発を決めたドイツから見た日本」というタイトルのミランダシュラーズさんのお話を聞いてきました。この方は311副島原発事故後、ドイツのメルケル首相が作った「エネルギー倫理員会」のメンバーとして招請された方です。もともとアメリカ人でワシントン大学などで学び、慶応大学や中央大学や立教大学で客員研究員および客員教授をした方です。その後、ドイツのベルリン自由大学教授から環境政策研究センター所長を歴任しているそうです。
話はなぜドイツが2000年に脱原発を選択したのか、そして2010年にメルケル首相が「脱脱原発」つまり、「脱原発をやめる」という決定をしていった経過から、また「脱脱脱原発」へと流れが変わったのかを話してくれました。
何がドイツの脱原発政策の原動力となったか
シュラーズさんは「ドイツ「緑の党」の誕生がドイツの脱原発政策を作った原動力です」といいました。そして「1979年のスリーマイル原発事故からドイツの脱原発運動は始まったのですが、決定的な運動の盛り上がりはチェルノブイリ原発事故です」と。「その脱原発の市民運動が「緑の党」を誕生させたのです」と。「緑の党と社会民主同盟との連立政権が出来て、「緑の党」の要求により脱原発を2000年に決めたのです」と。「「緑の党」はこれまでの既成政党と大きく違っていました。それは彼らが議会に入ったら花を本会議場のテーブルに飾ったり、ジーパンとTシャツで議会に出てきたり、常にマスコミの注目を集めてきたのです」と。また、「緑の党」は脱原発と反核平和と女性の権利という3つの明確なスローガンを掲げて、常にマスコミの注目を集める行動を取ってきたのです」と。また「ドイツのデモは親子で参加するお祭りのような雰囲気の、明るく楽しいという感じで、市民に共感を得るように心がけているようです」と。
この講演会は「緑の党」のために開催してくれたような感じでした。講演会が終わって参加者が帰るときに「緑の党」のパンフレットを撒いたらどんどん参加者の皆さんは「緑の党」へ加入してくれるのではないかとさえ思いました。彼女の話の途中に私は涙目になっていました。こんないい話をもっと多くの市民に聞いてもらいたかったです。
歴史が求めているのです「今こそ緑の党を」
日本の「緑の党」は311副島原発事故の後、2012年に誕生しました。本当はもっと以前から日本にもなければならなかったのです。ちょっと遅すぎる気もします。私は28年前から「なぜに日本には「緑の党」がないのだろう」と、不思議に思っていました。佐賀県議の(当時は唐津市議だった)故・増本亨さんたち地方議員が「緑の党」を作ろうと動き出していたのですが、あれから20数年かかったのです。「なぜこんなに長い時間がかかったのか」と嘆いても仕方ありません。遅れた分は全力で邁進して「失われた20数年」はこれから私たち踏ん張りで取り返せばいいのです。
いま、「緑の党おおいた」は女性が中心の若い組織です。だから元気がありますし、みなさん明るいです。その持ち前の明るさに、「私たちが日本の歴史を変えるのだ」という自信と確信を持って、これからもどんどん仲間や議員を増やしていきたいと思いました。もちろん地方議会に議員を出すことだけが目的ではありません。目の前の原発を止め続けること、そして廃炉にすること。それに戦争へ突き進もうとしている安倍首相の野望を打ち砕くことなど、やらなければならない仕事は山積みです。
そんなことをこの講演会を聞きながら私は感じていました。なお、ここに書いているシュラーズさんの話は、私の聞き書きですから全ては私の責任の文章です。
2012年1月23日 ミランダシューラーズさん「原発は止められる」
小坂正則
「緑の党」党首のペトラケリーさんがデモで逮捕されたときのマスコミの写真
昨日、大分市で社民党と平和センター主催の「脱原発を決めたドイツから見た日本」というタイトルのミランダシュラーズさんのお話を聞いてきました。この方は311副島原発事故後、ドイツのメルケル首相が作った「エネルギー倫理員会」のメンバーとして招請された方です。もともとアメリカ人でワシントン大学などで学び、慶応大学や中央大学や立教大学で客員研究員および客員教授をした方です。その後、ドイツのベルリン自由大学教授から環境政策研究センター所長を歴任しているそうです。
話はなぜドイツが2000年に脱原発を選択したのか、そして2010年にメルケル首相が「脱脱原発」つまり、「脱原発をやめる」という決定をしていった経過から、また「脱脱脱原発」へと流れが変わったのかを話してくれました。
何がドイツの脱原発政策の原動力となったか
シュラーズさんは「ドイツ「緑の党」の誕生がドイツの脱原発政策を作った原動力です」といいました。そして「1979年のスリーマイル原発事故からドイツの脱原発運動は始まったのですが、決定的な運動の盛り上がりはチェルノブイリ原発事故です」と。「その脱原発の市民運動が「緑の党」を誕生させたのです」と。「緑の党と社会民主同盟との連立政権が出来て、「緑の党」の要求により脱原発を2000年に決めたのです」と。「「緑の党」はこれまでの既成政党と大きく違っていました。それは彼らが議会に入ったら花を本会議場のテーブルに飾ったり、ジーパンとTシャツで議会に出てきたり、常にマスコミの注目を集めてきたのです」と。また、「緑の党」は脱原発と反核平和と女性の権利という3つの明確なスローガンを掲げて、常にマスコミの注目を集める行動を取ってきたのです」と。また「ドイツのデモは親子で参加するお祭りのような雰囲気の、明るく楽しいという感じで、市民に共感を得るように心がけているようです」と。
この講演会は「緑の党」のために開催してくれたような感じでした。講演会が終わって参加者が帰るときに「緑の党」のパンフレットを撒いたらどんどん参加者の皆さんは「緑の党」へ加入してくれるのではないかとさえ思いました。彼女の話の途中に私は涙目になっていました。こんないい話をもっと多くの市民に聞いてもらいたかったです。
歴史が求めているのです「今こそ緑の党を」
日本の「緑の党」は311副島原発事故の後、2012年に誕生しました。本当はもっと以前から日本にもなければならなかったのです。ちょっと遅すぎる気もします。私は28年前から「なぜに日本には「緑の党」がないのだろう」と、不思議に思っていました。佐賀県議の(当時は唐津市議だった)故・増本亨さんたち地方議員が「緑の党」を作ろうと動き出していたのですが、あれから20数年かかったのです。「なぜこんなに長い時間がかかったのか」と嘆いても仕方ありません。遅れた分は全力で邁進して「失われた20数年」はこれから私たち踏ん張りで取り返せばいいのです。
いま、「緑の党おおいた」は女性が中心の若い組織です。だから元気がありますし、みなさん明るいです。その持ち前の明るさに、「私たちが日本の歴史を変えるのだ」という自信と確信を持って、これからもどんどん仲間や議員を増やしていきたいと思いました。もちろん地方議会に議員を出すことだけが目的ではありません。目の前の原発を止め続けること、そして廃炉にすること。それに戦争へ突き進もうとしている安倍首相の野望を打ち砕くことなど、やらなければならない仕事は山積みです。
そんなことをこの講演会を聞きながら私は感じていました。なお、ここに書いているシュラーズさんの話は、私の聞き書きですから全ては私の責任の文章です。
2012年1月23日 ミランダシューラーズさん「原発は止められる」
by nonukes
| 2014-05-17 11:57
| 「緑の党」をつくろう!
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