2013年 12月 13日
太陽光発電を批判する方は哲学的な生き方の問題なのでは
太陽光発電についての様々な批判に思う(太陽光発電は環境にやさしいのか 2)小坂正則
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太陽光発電はエネルギー収支が割に合わない?
私は先日、「太陽光発電は環境にやさしいのか…」という文章を書いて、ブログにアップしました。なぜそうしたかと言うと、これまで大分県内の公共施設などに2004年から10年間で10機、自分たちのお金で設置してきたからです。設置しておいて、太陽光発電に対する一定の考えを発表しなければ、「お前は太陽光発電に賛成なのか反対なのかハッキリさせろ」というご批判を受けかねないからです。
もちろん、これまで10機も設置してきたのですから、反対のわけはありませんが、それでも様々なご批判が以前からありました。それらの批判を受けても、やはり太陽光発電の技術的な価値や、化石エネルギーの代替手段としての意義など総合して考えた場合には人類が選択すべき技術の1つだとは思うから、これまで設置活動を続けてきたのです。
当初から太陽光発電を批判していた方に槌田敦さんという私の尊敬する反原発の科学者がいます。実は何を隠そう、私は槌田敦さんの大ファンなのです。以前、大分にもお越し頂いて講演会を開いたこともあります。「ケンカ・アツシ」と言われるほど、国家権力や御用学者どもへ歯に衣着せぬ彼特有の論争を吹っ掛ける雄志に惚れ惚れしていました。ただ、人間は完全ではありませんので間違いはあり得ます。彼の太陽光発電のエネルギーコストに関する論理は残念ながら現在では無理があります。「太陽光発電を製造するために投入するエネルギーに対して太陽光発電が生み出すエネルギーの方が少ないか、多くてもほとんど同じだ」と言ってました。その場合は「廃棄するためのエネルギーなどを考えたら太陽光発電は作るべきではない」という説です。しかし30年前はモジュールの変換効率が4%から5%だったので、ペイバックタイムが10年などと言われていたのですが、現在は19%を越える変換効率のものなども出て来ていてペイバックタイムも1年から3年で収支が回収できるようになったのです。(注釈参照)
太陽光発電を批判する方は哲学的な生き方の問題なのでは
私のブログへの反論が寄せられていました。「太陽光発電は資源採掘から廃棄に至るまで環境にやさしいとは言えませんし、再エネは原発と同じく非人道的な技術。再エネの補助金やFIT仕組み自体も不公平で欺瞞に満ちたものです」という批判です。
確かに「太陽光発電の資源採掘が環境にやさしいか」と問われたら、やさしいかやさしくないかはそれぞれの価値観によって変わってくるでしょうし、太陽電池の製造段階でシリコンを洗浄するときに有機溶剤が環境汚染を引き起こすなどという問題も一時は騒がれていました。それらは規制を厳しく取り締まれば問題はないと思います。また、廃棄時に出る膨大なガラスなどのリサイクルしやすい製造過程での統一的なリサイクル仕様なども製造時に規制があるべきだと私も思います。
ただ、それらの問題点は社会的な規制や技術的に解決できることだと私は思います。問題は「自然エネルギーは原発の代替エネルギーとなり得る」という考えの方に対して批判する方の心情は「人間の欲望を抑えなければ、無限の欲望を満たすエネルギーなどないのだ」という哲学的な問題を提起しているのではないかと私は思うのです。
私の尊敬する中津の作家、故松下竜一氏が「暗闇の思想」でこのように書います。「すでに今、我々はそれほど不足なく便利な生活をしているではないか。豊かな生活をしているではないか。だからここらで踏みとどまってもいいのではないか」とまた、「電気が足りないからと言って、次々に発電所を作ってどげえするのか。足りなかったら今ある電気を分かち合えばいい」と。また、「電力危機というのは、実はそれを盛んに言い立てている側にとっての危機なのだ」と。「…実はあそこで(注:1973年の第一次石油ショック)もっと慎ましく生きていくんだという国の方向を、我々の方向を定めるべきであったのに、逆の方向を取ってしまった。その結果が、いま取り返しもつかないほどに日本中に原発を溢れさせてしまった」と。また、松下氏は「比喩ではなく、停電の日があってもいいと思うのです」と語っています。
私が太陽光発電の電気を作ったり使ったりすることは、松下竜一が言った「暗闇の思想」を胸に秘めて「松下竜一に恥じない、つつましい生き方を自分は本当にしているのか」と自分に問いながら、わたしたちの暮らし方を考えることだと思うのです。原発がいやだから再生可能エネルギーで賄う社会を実現したら、人類のエネルギー問題は解決するわけではないのでしょう。結局は私たちの暮らしていくなかで使うエネルギーというものはどんなものでも環境に何らかの影響を与えるのだということを肝に銘じて、ほどほどの暮らしに満足して生きていくしか方法はないのだと思います。答えのない回答を求めて私たち人類はおごりを戒めながら今よりもスローにスモールにシンプルに暮らしていくように、私は心がけたいと思っています。
ですから私へのご批判の方への回答としては「しかとあなたのご批判を心にとめてこれからも足下を踏み外さないように慎ましく活動して行きます」と答えたいと思います。
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太陽光発電はエネルギー収支が割に合わない?
私は先日、「太陽光発電は環境にやさしいのか…」という文章を書いて、ブログにアップしました。なぜそうしたかと言うと、これまで大分県内の公共施設などに2004年から10年間で10機、自分たちのお金で設置してきたからです。設置しておいて、太陽光発電に対する一定の考えを発表しなければ、「お前は太陽光発電に賛成なのか反対なのかハッキリさせろ」というご批判を受けかねないからです。
もちろん、これまで10機も設置してきたのですから、反対のわけはありませんが、それでも様々なご批判が以前からありました。それらの批判を受けても、やはり太陽光発電の技術的な価値や、化石エネルギーの代替手段としての意義など総合して考えた場合には人類が選択すべき技術の1つだとは思うから、これまで設置活動を続けてきたのです。
当初から太陽光発電を批判していた方に槌田敦さんという私の尊敬する反原発の科学者がいます。実は何を隠そう、私は槌田敦さんの大ファンなのです。以前、大分にもお越し頂いて講演会を開いたこともあります。「ケンカ・アツシ」と言われるほど、国家権力や御用学者どもへ歯に衣着せぬ彼特有の論争を吹っ掛ける雄志に惚れ惚れしていました。ただ、人間は完全ではありませんので間違いはあり得ます。彼の太陽光発電のエネルギーコストに関する論理は残念ながら現在では無理があります。「太陽光発電を製造するために投入するエネルギーに対して太陽光発電が生み出すエネルギーの方が少ないか、多くてもほとんど同じだ」と言ってました。その場合は「廃棄するためのエネルギーなどを考えたら太陽光発電は作るべきではない」という説です。しかし30年前はモジュールの変換効率が4%から5%だったので、ペイバックタイムが10年などと言われていたのですが、現在は19%を越える変換効率のものなども出て来ていてペイバックタイムも1年から3年で収支が回収できるようになったのです。(注釈参照)
太陽光発電を批判する方は哲学的な生き方の問題なのでは
私のブログへの反論が寄せられていました。「太陽光発電は資源採掘から廃棄に至るまで環境にやさしいとは言えませんし、再エネは原発と同じく非人道的な技術。再エネの補助金やFIT仕組み自体も不公平で欺瞞に満ちたものです」という批判です。
確かに「太陽光発電の資源採掘が環境にやさしいか」と問われたら、やさしいかやさしくないかはそれぞれの価値観によって変わってくるでしょうし、太陽電池の製造段階でシリコンを洗浄するときに有機溶剤が環境汚染を引き起こすなどという問題も一時は騒がれていました。それらは規制を厳しく取り締まれば問題はないと思います。また、廃棄時に出る膨大なガラスなどのリサイクルしやすい製造過程での統一的なリサイクル仕様なども製造時に規制があるべきだと私も思います。
ただ、それらの問題点は社会的な規制や技術的に解決できることだと私は思います。問題は「自然エネルギーは原発の代替エネルギーとなり得る」という考えの方に対して批判する方の心情は「人間の欲望を抑えなければ、無限の欲望を満たすエネルギーなどないのだ」という哲学的な問題を提起しているのではないかと私は思うのです。
私の尊敬する中津の作家、故松下竜一氏が「暗闇の思想」でこのように書います。「すでに今、我々はそれほど不足なく便利な生活をしているではないか。豊かな生活をしているではないか。だからここらで踏みとどまってもいいのではないか」とまた、「電気が足りないからと言って、次々に発電所を作ってどげえするのか。足りなかったら今ある電気を分かち合えばいい」と。また、「電力危機というのは、実はそれを盛んに言い立てている側にとっての危機なのだ」と。「…実はあそこで(注:1973年の第一次石油ショック)もっと慎ましく生きていくんだという国の方向を、我々の方向を定めるべきであったのに、逆の方向を取ってしまった。その結果が、いま取り返しもつかないほどに日本中に原発を溢れさせてしまった」と。また、松下氏は「比喩ではなく、停電の日があってもいいと思うのです」と語っています。
私が太陽光発電の電気を作ったり使ったりすることは、松下竜一が言った「暗闇の思想」を胸に秘めて「松下竜一に恥じない、つつましい生き方を自分は本当にしているのか」と自分に問いながら、わたしたちの暮らし方を考えることだと思うのです。原発がいやだから再生可能エネルギーで賄う社会を実現したら、人類のエネルギー問題は解決するわけではないのでしょう。結局は私たちの暮らしていくなかで使うエネルギーというものはどんなものでも環境に何らかの影響を与えるのだということを肝に銘じて、ほどほどの暮らしに満足して生きていくしか方法はないのだと思います。答えのない回答を求めて私たち人類はおごりを戒めながら今よりもスローにスモールにシンプルに暮らしていくように、私は心がけたいと思っています。
ですから私へのご批判の方への回答としては「しかとあなたのご批判を心にとめてこれからも足下を踏み外さないように慎ましく活動して行きます」と答えたいと思います。
下に松下竜一氏が1972年に書いた「暗闇の思想を」から一部抜粋して転載します。
40年も前に書いた文章だとは思えない、鋭く時代を射貫いた松下竜一という人間の思想だと思います。(私の自宅には松下竜一資料館が併設しています)
ウィキペディアよりエネルギー源としての性能を比較する際に、エネルギーペイバックタイム(EPT)やエネルギー収支比(EPR)が指標として用いられることがある。製造や原料採鉱・精製、保守等に投入されるエネルギーに対して得られる電力の大きさを示す。ライフサイクルアセスメント(LCA)の一環である。エネルギー収支や環境性能の実用性を否定する意見は都市伝説として否定されている。現状でEPTが1-3年程度、EPRが10-30倍程度とされる。
「暗闇の思想」 松下 竜一
あえて大げさにいえば、「暗闇の思想」ということを、この頃考え始めている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。きっかけは電力である。原子力を含めて、発電所の公害は今や全国的に建設反対運動を激化させ、電源開発を立ち往生させている。もともと、発電所建設反対運動は公害問題に発しているのだが、しかしそのような技術論争を突き抜けて、これが現代の文化を問いつめる思想性をも帯び始めていることに、運動に深くかかわる者ならすでに気づいている。
かつて佐藤前首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気を止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、止めてもらいましょう」と、きっぱりと答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化を拒否出来る思想が。
今、私には深々と思い起こしてなつかしい暗闇がある。10年前に死んだ友と共有した暗闇である。友は極貧のため電気料を滞納した果てに送電を止められていた。私は夜ごとこの病友を訪ねて、暗闇の枕元で語り合った。電気を失って、本当の星空の美しさがわかるようになった、と友は語った。暗闇の底で、私たちの語らいはいかに虚飾なく青春の思いを深めたことか。暗闇にひそむということは、何か思惟を根源的な方向へと鎮めていく気がする。それは、私たちが青春のさなかにいたからというだけのことではあるまい。皮肉にも、友は電気のともった親戚の離れに移されて、明るさの下で死んだ。友の死とともに、私は暗闇の思惟を遠ざかってしまったが、本当は私たちの生活の中で、暗闇にひそんでの思惟が今ほど必要な時はないのではないかと、この頃考え始めている。
電力が絶対不足になるのだという。九州管内だけでも、このままいけば毎年出力50万キロワットの工場をひとつずつ造っていかねばならぬという。だがここで、このままいけばというのは、田中内閣の列島改造政策遂行を意味している。
年10%の高度経済成長を支えるエネルギーとしてなら、貪欲な電力需要は必然不可欠であろう。しかも悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効率の枠内で解消し難い。そこで電力会社や良識派と称する人びとは、「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で、公害を免罪しようとする。
国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならぬという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに――誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。
じゃあチョンマゲ時代に帰れというのかと反論が出る。必ず出る短絡的反論である。現代を生きる以上、私とて電力の全面否定という極論をいいはしない。今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。日本列島改造などという貪欲な電力需要をやめて、しばらく鎮静の時を持とうというのである。その間に、今ある公害を始末しよう。火力発電所に関していえば、既存工場すべてに排煙脱硫装置、脱硝装置を設置し、その実効を見きわめよう。低硫黄重油、ナフサ、LNGを真に確保できるのか、それを幾年にわたって実証しよう。温排水対策も示してもらおう。しかるのち、改めて衆議して建設を検討すべきだといいたいのだ。たちまち反論の声があがるであろう。経済構造を一片も知らぬ無名文士のたわけた精神論として一笑に付されるであろう。だが、無知で素朴ゆえに聞きたいのだが、いったいそんなに生産した物は、どうなるのだろう。タイの日本製品不買運動はかりそめごとではあるまい。公害による人身被害精神荒廃、国土破壊に目をつぶり、ただひたすらに物、物、物の生産に驀進して行き着く果てを、私は鋭くおびえているのだ。「いったい、物をそげえ造っちから、どげえすんのか」という素朴な疑問は、開発を拒否する風成で、志布志で、佐賀関で漁民や住民の発する声なのだ。反開発の健康な出発点であり、そしてこれを突きつめれば「暗闇の思想」にも行き着くはずなのだ。
いわば発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都会志向のキャッチフレーズで喧伝されるなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、「暗闇の思想」があらねばなるまい。まず、電力がとめどなく必要なのだという現代神話から打ち破らねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへの厳しい反省でそれは可能となろう。
冗談でなくいいたいのだが、「停電の日」をもうけていい。勤労にもレジャーにも加熱しているわが国で、むしろそれは必要ではないか。月に一夜でもテレビ離れした「暗闇の思想」に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないかどうか、冷えびえとするまで思惟してみようではないか。私には、暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自立的なものでなければならぬという予感がしている。
(1974年3月刊 朝日新聞社「暗闇の思想を」)
ウィキペディアよりエネルギー源としての性能を比較する際に、エネルギーペイバックタイム(EPT)やエネルギー収支比(EPR)が指標として用いられることがある。製造や原料採鉱・精製、保守等に投入されるエネルギーに対して得られる電力の大きさを示す。ライフサイクルアセスメント(LCA)の一環である。エネルギー収支や環境性能の実用性を否定する意見は都市伝説として否定されている。現状でEPTが1-3年程度、EPRが10-30倍程度とされる。
「暗闇の思想」 松下 竜一
あえて大げさにいえば、「暗闇の思想」ということを、この頃考え始めている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。きっかけは電力である。原子力を含めて、発電所の公害は今や全国的に建設反対運動を激化させ、電源開発を立ち往生させている。もともと、発電所建設反対運動は公害問題に発しているのだが、しかしそのような技術論争を突き抜けて、これが現代の文化を問いつめる思想性をも帯び始めていることに、運動に深くかかわる者ならすでに気づいている。
かつて佐藤前首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気を止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、止めてもらいましょう」と、きっぱりと答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化を拒否出来る思想が。
今、私には深々と思い起こしてなつかしい暗闇がある。10年前に死んだ友と共有した暗闇である。友は極貧のため電気料を滞納した果てに送電を止められていた。私は夜ごとこの病友を訪ねて、暗闇の枕元で語り合った。電気を失って、本当の星空の美しさがわかるようになった、と友は語った。暗闇の底で、私たちの語らいはいかに虚飾なく青春の思いを深めたことか。暗闇にひそむということは、何か思惟を根源的な方向へと鎮めていく気がする。それは、私たちが青春のさなかにいたからというだけのことではあるまい。皮肉にも、友は電気のともった親戚の離れに移されて、明るさの下で死んだ。友の死とともに、私は暗闇の思惟を遠ざかってしまったが、本当は私たちの生活の中で、暗闇にひそんでの思惟が今ほど必要な時はないのではないかと、この頃考え始めている。
電力が絶対不足になるのだという。九州管内だけでも、このままいけば毎年出力50万キロワットの工場をひとつずつ造っていかねばならぬという。だがここで、このままいけばというのは、田中内閣の列島改造政策遂行を意味している。
年10%の高度経済成長を支えるエネルギーとしてなら、貪欲な電力需要は必然不可欠であろう。しかも悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効率の枠内で解消し難い。そこで電力会社や良識派と称する人びとは、「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で、公害を免罪しようとする。
国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならぬという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに――誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。
じゃあチョンマゲ時代に帰れというのかと反論が出る。必ず出る短絡的反論である。現代を生きる以上、私とて電力の全面否定という極論をいいはしない。今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。日本列島改造などという貪欲な電力需要をやめて、しばらく鎮静の時を持とうというのである。その間に、今ある公害を始末しよう。火力発電所に関していえば、既存工場すべてに排煙脱硫装置、脱硝装置を設置し、その実効を見きわめよう。低硫黄重油、ナフサ、LNGを真に確保できるのか、それを幾年にわたって実証しよう。温排水対策も示してもらおう。しかるのち、改めて衆議して建設を検討すべきだといいたいのだ。たちまち反論の声があがるであろう。経済構造を一片も知らぬ無名文士のたわけた精神論として一笑に付されるであろう。だが、無知で素朴ゆえに聞きたいのだが、いったいそんなに生産した物は、どうなるのだろう。タイの日本製品不買運動はかりそめごとではあるまい。公害による人身被害精神荒廃、国土破壊に目をつぶり、ただひたすらに物、物、物の生産に驀進して行き着く果てを、私は鋭くおびえているのだ。「いったい、物をそげえ造っちから、どげえすんのか」という素朴な疑問は、開発を拒否する風成で、志布志で、佐賀関で漁民や住民の発する声なのだ。反開発の健康な出発点であり、そしてこれを突きつめれば「暗闇の思想」にも行き着くはずなのだ。
いわば発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都会志向のキャッチフレーズで喧伝されるなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、「暗闇の思想」があらねばなるまい。まず、電力がとめどなく必要なのだという現代神話から打ち破らねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへの厳しい反省でそれは可能となろう。
冗談でなくいいたいのだが、「停電の日」をもうけていい。勤労にもレジャーにも加熱しているわが国で、むしろそれは必要ではないか。月に一夜でもテレビ離れした「暗闇の思想」に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないかどうか、冷えびえとするまで思惟してみようではないか。私には、暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自立的なものでなければならぬという予感がしている。
(1974年3月刊 朝日新聞社「暗闇の思想を」)
by nonukes
| 2013-12-13 14:58
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