2013年 10月 21日
浜脇冒険ものがたり1
私はつたないブログをここに毎日のように書いているのですが、随分前から「私の想いを書き残しておきたい」という衝動に駆られて書きはじめたものがあります。ただ何のあてもなく書いていただけだったのですが。これは別府の懐かしい狭い路地の続く浜脇の風景を書いたものです。それは母の看病に通った病院の窓から浜脇の街を眺めながら、子どもの頃よくかよった、この街の想い出を綴ったエッセイです。私は朝見川の流れる浜脇という街がとても好きです。
そこで1つの決心をしました。「そうだ、小説を書こう」と。「馬出アパートに陽はまた沈む」を現在書いています。別府も書きたいと思っています。
浜脇冒険ものがたり1小坂正則 2008年作
母が入院して七ヶ月が過ぎた。
「前日から食欲がなく、顔色もよくない」と、ホームヘルパーに言われて、私も母の顔をそっと覗いてみた。そういえば確かにちょっと顔色が悪いし、何だか元気がない。食欲もないと言うけど、熱はないから「今日のところは様子を見ることにしよう」と、私は返した。ただ、私もあまり自信がない。二ヶ月ほど前に、「どこで怪我したのか、人差し指を怪我しているから病院に連れて行って」と、ヘルパーに言われたけど、「これくらいたいしたことはない」と、私は病院に連れて行かなかった。すると、一週間ほどして、やはり傷が治らないので、結局病院がよいが続くことになった。だから、私はやはりすぐ病院に行った方がいいのかと後悔したのだ。
「熱もないし、今日は私も仕事から帰って疲れているし、こんな遅い時間は救急病院しか開いていないのでもう少し様子を見よう」と、話した。
さて、次の日私は休みだったので、のんびり寝ていたら、ヘルパーが起こしに来た「大変だ。玄関でお母様が倒れている」と。私は慌てて玄関に走って行った。すると、ぐったりと横になっている。意識はあるがぐったりとしている。これはまずい。すぐに救急車を呼んだ。救急車で搬送される間、これからまた、私にとっても大変な入院生活が始まるのだと覚悟した。
ぐったりとしたまま病院に着いてから検査が数時間続いた。私はその間、入院の準備のための買い物や何かと気ぜわしく動き回った。 医者は「命に別状はないけど、当分入院しなければなりません」と言う。胆管が詰まって胆汁が出なくなったそうだ。内視鏡手術を行うという。
私は一日中付き添って、それから長い入院生活が続くことになる。最初の入院先の看護婦さんや医者も丁寧な対応で、私はすっかり安心した。しかし、ある程度治療が終わると、非情な現実が襲いかかる。
「もううちの病院での治療は終わりました。他の病院に移るか老人施設に転院してください」と言われたのだ。
それから私と母親の「社会的入院生活」が始まった。
「社会的入院」とは、治療を目的とする入院ではなく、病院を出ても行くところのない患者、主に老人が病院に居座ることを指す。つまり、私たちは、このような状態で特養に入るまでの「繋ぎ」目的の入院生活が始まったのだ。
そんなわけで、私の話の前触れは終わる。私たちに紹介されたのは老人専門病院だ。東別府の中心、浜脇高等温泉のすぐ脇きにあるH病院だ。
私は浜脇という街が好きだ。この街は戦前の赤線地帯だった。娼婦が店先の格子戸から顔を覗かせたであろう格子が、私の子どもの頃までは残っていた。残念ながら今ではほとんどそんな面影はない。ここは別府温泉が栄えた頃のいわゆる繁華街だった。
流川界隈と浜脇界隈が別府の歓楽街だった。だから私の子どもの頃は浜脇の旅館街では春の温泉祭りにはお椀やお膳で人形を作って、それを店先に飾るという行事が繰り広げられていた。
そんな中心街の真ん中にある病院に母は入院した。私は時間の許す限り面会に行くようにしている。ろくに話しなどないが、一人でベッドに入れられている状態は、まるで監獄に閉じ困られた囚人のように思えるからだ。出来るならここから出してやりたい。でもそれが出来ないこともまた現実だ。
今日は2月にしては暖かな1日だ。春の陽気が窓から差す木漏れ日にも感じる。外では小鳥がさえずっている。母の病室は南向きの部屋だが、窓からは鶴見山が遠くに見えるが、病室の前は狭い路地で、向かいは2階建ての古い住宅だ。いつもカーテンが閉じているので、誰も住んでいないのかもしれない。この界隈には昔のような活気はなく、人の気配があまりしない。病院の斜め向かいは酒屋だ。だが、酒屋のシャッターはいつも閉まっている。酒屋と分かるのはビールの自動販売機がまだ動いているから酒屋だと分かるくらいだ。周りの街はこの老人病院と同じくらい静まりかえっている。昔の喧噪がウソのようだ。
病院の中では無愛想な看護婦が行き来している。老人病院の老人ホームと化した病院と治療を目的とした病院とでは院内の活気が違う。ここの看護婦の仕事は飯を食べさせて排泄を世話するのが仕事といった風だ。だから病院内に活気などない。母の病室は3人部屋だが、昨日から隣のベッドの患者はいない。何でもナース室の前の病室に移ったらしい。入り口の患者は、よく聞き取れない言葉をいつも出している。「ねんちゃん。ねんちゃん」と、看護婦を呼んでいるのだ。でも、誰も来ない。
そんな退屈な病室の母はただ、静かに動こうともせず、じっとしているだけだ。母は窓越しに外の景色を見ることはかなわない。窓側に頭が向けられているからだ。もちろん、窓側に顔を向けたとしても、ベッドからでは空しか見えないだろう。外の景色にでも興味が持てたらどんなに生活に張りが出るだろうかと思うが、それもこの年になったら無理なのかもしれない。
私は、この病院を行き来する生活を続けるに当たって、一つの決意をした。病院と浜脇の界隈を丹念に観察し、私の看病日記としようと決めたのだ。そうすれば私の看病にも励みになるかもしれないから。病院へ行く目的が一つ増えれば毎日が楽しくなりそうだ。私はそう心に決めてから、病院に行くのが楽しくなった。
病院に行くもう一つの目的
私には浜脇の病院に母の見舞いに行くもう一つの目的がある。それは「浜脇高等温泉」に入るためだ。だって、ただ病院に行って母の汚れ物を持って帰るだけだったら何だか侘びしいではないか。だから、温泉に入って帰るのだ。この浜脇高等温泉は私のお気に入りの温泉だ。単純泉で、透明な癖のない温泉だが湯量の豊富なのが自慢の温泉なのだ。
ここの温泉に入るついでに母を見舞うのか母を見舞ったついでに温泉に入るのか、よく分からない。それくらい温泉には必ず入って帰ることにしている。昔の高等温泉は煉瓦造りの洒落た温泉だった。残念なことに私は昔の温泉には入ったことがない。子供の頃、周辺を徘徊していたが、温泉に入ることはなかった。この街の再開発で煉瓦造りの温泉は壊され、後に高層アパートが建てられた。だから温泉の周りは変貌したが、それでも周辺はいまだに昔の面影を残している。
私の子どもの頃は迷路のようなこの街を徘徊するのが私の楽しみの一つだった。私は浜脇から5キロほど離れた高崎山自然動物園の山の中腹に住んでいるのだが、浜脇へは子どもの頃電車でそろばん塾や習字塾に通っていた。その行き帰りに、この迷路のような街を冒険するのが日課だったのだ。もう一つは「たこ焼き」を買って食べることだった。だから、以前歩いた路地を歩いて、昔の想い出が蘇ることがある。そんなとき私は50年以上前の自分へタイムマシンに乗って帰って行くような気分になれるのだ。
懐かしいというよりもこれは冒険だ。突然50年が過ぎたが私はあの当時の私。私は鏡を見なければちっとも、あの当時と変わっていない。だから全てが万華鏡のようにぐるぐると景色が回って見える。
今日は河野そろばん塾へ行って見よう。
私は小学校の確か3年生か4年生から6年生までそろばん塾へ通っていた。別にそろばんが好きだったわけでもなければ、そろばんを習いたいと思ったわけでもない。ただ、別府へ遊びに行く口実が週に2回できるのが嬉しいからだ。何曜日かはもう忘れたが、週に2回の塾には欠かさず通った。そこで別府浜脇小学校の友達と一緒に遊んで10円のくじを引いて日が暮れるまで遊んで家に帰るのだ。浜脇の路地は、まさに迷路だった。人がやっと通れるような狭い路地を次から次と回り、冒険を楽しむ。そこには人々の汗の臭いや、洗濯物があり、赤ん坊の泣き声が路地に響いていた。また、木工細工のモーターの回る音がしていて、ケヤキのカンザシや串を丁寧に作っていた職人がいた。私はその工場の前で時間が過ぎるのも忘れて窓に顔をすりつけるように眺めていた。
そんな工場も残念ながら今は閉まっていて、カンザシは作っていないが。
私には溝口君という友人がいた。彼は私と同い年の小学校5年生だ。彼もそろばん塾に通っているので塾に行けば彼に会える。塾が終るころ、溝口君が「コサカ今日も帰りに行こうぜ」と、隣から小さな声でささやいた。私は「いいとも」と隣の溝口君に相づちを打った。それから2人は黙々と珠算の玉をはじいては時計を見て「早く終わらないかなあ」と塾が終わる5時が来るのを待ち望んだ。
夏の浜脇は住宅が密集しているので風が通らないから暑い。先生はいつもランニングシャツ1枚で甲高い声で「願い上げましては…」と数字を読み上げる。扇風機がせわしく首を振っている。「さあこの問題ができた者から帰っていい」と、先生の声がした。また、俺と溝口は最後まで残る羽目になるんだと、私は小さく「チェッ」と呟いた。案の情、私たちは最後の5人までに残ってしまった。それでもなんとかして玉をはじいて「ご名算」という声と共に最後の5人も「よし帰っていい」と、お許しが出た。すでに5時を15分ほど時計の針は回っていた。2人はそろばんを母親が作ってくれた布製の袋に差し込んで、塾を飛び出して一目散に例の場所へ走り出した。それはセメントで護岸が塗り固められた朝見川の川沿いに立ってる小さな小鳥屋だった。そこにお目当ての十姉妹がいたのだ。私たちは小鳥屋のオヤジに頼んで十姉妹の子の世話をさせてもらったりするのがたまらなく楽しかったのである。でも、カナリヤには触らせてはくれなかった。カナリヤは高級鳥なので私らには触らせてくれなかったのだ。私たちは「かわいいなあ。ほしいなあ」と、いいながら鳥を眺めるのが楽しかったのだ。
そうこうしているうちに日が暮れてきた。どちらともなく「ぼちぼち帰ろうか」「うんかえろう」と、2人は満足した風に小鳥屋を後にした。溝口君は川を渡ったらすぐ路地を右に回って3本目の辻を左に行って3軒目の長屋の1階だ。僕は彼の家に遊びに行った時お父さんに会ったことがある。ちょうど夏の暑い日にお父さんがいた。お父さんは裸で団扇を仰いでいた。背中に入れ墨があった。彼のお父さんは組員だと溝口君が話してくれた。彼は実に優しい私の友人なのだが、お父さんは恐ろしそうだった。でも、お父さんは優しいと溝口君は私に話してくれた。
ところが組がここを出なければならなくなったらしい。私が中学になった頃、別府の同じ塾に通っていた別の友人から聞いた話では、「溝口君のお父さんはヤクザの喧嘩で刺し殺されたらしい」という。「溝口君はお母さんと一緒に遠くに引っ越した」とも聞いた。私はそれ以後50年以上彼とは会っていない。
温泉祭りの松原公園は興奮の坩堝だった
さて、今日は別府一のお祭り「温泉祭り」を見に行こう。温泉祭りはお釈迦様の誕生日をお祝いするお祭りだ。4月8日を前後に5日ほどある。温泉祭りは春祭りとも言われて、別大電車は造花の桜で飾られた花電車が走るのだ。この花電車に乗り合わせたらラッキーだった。中に入れば普通の古びた電車なのだが、周りはあでやかな桜で飾られている。
そんな花電車の通る別大電車に乗って、私は松原公園に向かって走った。なぜ走ったかというと、春の4月は我が家は忙しいのだ。びわの実に袋をかける農作業に追われて、子供の私といえども仕事をサボれないのだ。でも、今日行かなければもう温泉祭りは終わってしまう。だから私は父ちゃんに「昼から温泉祭りに行っていいやろう」と聞いたが、父ちゃんは聞こえないふりをしている。母ちゃんが「父ちゃんマサ坊があげえ楽しみにしているのやけん行かせてやればいいやないの」と言ってくれた。父ちゃんは「しょうがねえのうあげなんが何でおもしりいんか。無駄遣いするなよ」といって、私の働いた分の駄賃2百円をくれた。私は2百円を握りしめて松原公園を目指したのだ。
日曜日の松原公園は人でごった返していた。溝口君にも会えた。私は一つ目小僧の見せ物小屋に入ろうか、それともポパイのパイプを買おうかと悩んだ。私の2百円をいかに充実したもので遊ぶか、全神経を集中させて私は悩んだ。結論が出ないので、溝口君と一緒にガムを針で切り抜いて型を作るゲームに挑戦した。一番簡単な傘の絵を切り抜くのだがこれがまた実に難しい。おじさんは手でパキパキ割って傘の絵を切り出すが、私は一度としてできたためしはない。2人とも失敗して、今度はポパイのハッカパイプを一緒に買った。だから、一つ目小僧の見せ物には入らなかった。映画館も公園の前にある。1つは成人映画だから僕らは入れない。もう一つは加山雄三の若大将シリーズとゴジラをやっている。でも今日はやめとこう。映画を見たら帰りが遅くなる。結局ぼくはくじを引いて全部外れてがっかりしながら帰ろうとした。するとおばさんが「坊やこの当たりがそんなにほしいのかい」という。私は「うん」というと、おばさんは「このくじの中には当たりは入っとらんのよ。当たりがほしかったら100円で売ってやるよ」というのだ。「そんなのインチキやンか」と私は子供ながらに抗議した。「分かった。分かった。それならもう残りも少ないから50円で売ってやるけんゆるしてな」という。私はこの50円を使えば帰りの電車賃がなくなるのにどうしようと、悩んだ。でも1等の馬のフィギアがほしくてほしくてたまらなかったから、50円を差しだして、「おばさんじゃあおくれ」といった。私はビニールでできた馬を握りしめた別大国道を一路高崎山の実家を目指して走った。手に持っていると邪魔になるのでズボンのポケットに差し込んで日がどっぷり暮れた別大国道の歩道を走った。小一時間ぐらいかけて家にたどり着いたら、ポケットにあるはずのビニール製の馬がない。どこかで落としたのだ。これから後戻って探すには日がすっかり暮れていて無理だ。翌日は月曜日で学校があるので探しには行けない。とうとう、私の温泉祭りは悲しい思い出のお祭りとなって終わった。帰ってから「何を買ったんか」と、父ちゃんに聞かれたが、私は馬の人形を買ったことも、落としたことも言わなかった。怒られるに決まっているから。こんな子供心にも辛い思い出はなぜか未だに鮮明に覚えている。
急変する母の容態
この物語を書き出して僅か5日目に母は返らぬ人となってしまった。人の命なんて何とあっけないものか。最後に母を見舞ったのは5日ほど前だった。つまり、この物語が始まった、その日が母との最後の日となったわけだ。親不孝な息子に面倒を見てもらわなければならなかった母も不憫だが、そんなに簡単に逝ってしまわれたのでは物語が続かないではないかと、母に文句の一つもいいたい。
だから、母の見舞いのない、浜脇界隈物語がこれからは続くことになる。母が亡くなって、慌ただしい時間が過ぎて、入院の下着や何かを全部持って帰って、「もうh病院には行かなくていいんだ」と、思ったら、何だか無性に寂しくなった。私が子供の頃、自由に楽しく浜脇界隈を俳諧して回れたのは、家に帰れば「母の暖かな夕ご飯が待っている」という確信があったからだった。私のこの物語も、そんな思い出の「暖かな夕ご飯」はもうないが、浜脇に母が居るという確信のような心のよりどころがあったから、母が待っているような気がしたので自由に徘徊して回れたのかもしれない。だから、私はこれからは1人で寂しく帰る家の当てもない浮浪者のような元気のない、うつむいた目で浜脇を徘徊するのかもしれない。
くにちゃんとの淡い思い出
私には片思いの子がいた。彼女も私が塾に通うようになってから、すぐに同じ塾に通うようになった。でも、彼女は利口でかわいくて人気者だった。彼女は私よりも後から入ったのに、すぐに私を追い越して上の級に進級した。だから僕らの授業が終わった後に彼女は来る。僕とは入れ違いだ。「小坂君まだ進級でできんの。今度の試験は頑張ってね」と、お姉さん面して私に声を掛けた。私は「ほっといてくれ。俺が塾に来る目的は浜脇を探検するために来てるんじゃ。男は珠算なんかできんでもいいんじゃ」と空元気をだして反論した。でも、ちょっと恥かしかった。しかし、俺には溝口君という友達がいるからいいんだ。彼を差し置いて進級などできない。男の友情の方が女の子よりも大事なんだ。
珠算塾経営者も塾生の確保に様々な苦労をしている。僕らをトキハデパートに連れて行って食事をおごってくれることが年に一度は必ずある。その時は学校ごとに行くので、彼女と一緒になれる。別に何を話すわけでもないが、何となく一緒にいるだけで嬉しい。面白いもので同じ学校だからいつも会っているのに、何か特別の行事に一緒にいるということに感動があるのだ。そんなかわいい彼女との一方的な思い出も、何もなく終わってしまった。それでも若い私は夢の中で彼女には無断で、何度となく彼女におい出いただいたことか。
東別府駅前の産婆さん
私を産み取った産婆さんが東別府に一人で住んでいた。私が子供の頃から随分お年を召していた。でも、私を見ると、「小坂のお坊ちゃんか。元気にしてなさるか」と、いつも優しく頭を撫でてくれた。東別府駅前の道路と国道に挟まれた長屋の2階に産婆さんの部屋はあった。もう、私が塾に通う頃には産婆をやめていて、一人で慎ましく暮らしていた。背中は曲がっているが、しっかりしたおばあさんだった。珠算塾ではほとんど会わなかったが、書道塾がこのおばあさんの長屋のすぐ真向かいだったのでよくみかけたものだ。彼女は静かにベンチに座って道路を行き交う車を眺めながら日向ぼっこをしていた。私も他人のようにも思えなくて、「こんいちは」と声を掛けながら、優しいおばあさんの曲がった背中を静かに見つめていた。
いつ頃かあらおのおばあさんを見なくなったのだろか。この町には私の思い出が一杯詰まっているのだ。
流川松屋旅館の思い出
私が浜脇から流川界隈を徘徊する理由がもう一つある。私の親類にたまたま旅館経営者がいた。流川松屋旅館とイヨヤ旅館、観海寺温泉には杉の井もあったらしい。今は杉の井ホテルだが、戦前は杉の井旅館だった。そのころの旅館経営者が身内だった。そんな、旅館の後を見て回り、当時を思い出すのが私にしかできない最高の楽しみだからである。松屋旅館のおばちゃんにここでお菓子を買ってもらったことや、イヨヤ旅館の4階から眺めた北浜港の関西汽船の思い出や旅館の大きな中庭の思い出などなど。でも今見るとこんなに小さな敷地だったのかと驚いてしまうが、当時はもっと大きく見えたものだ。
今はヒットパレードというキャバレーに変わっている場所が旧松屋旅館だった。すぐ前には竹川原温泉がある。あの路地の石畳にはには女給さんの涙や若旦那との激し愛や別れなど様々な女たちの思い出が雨と一緒に流されたことだろう。だからかどうかは知らないが流川の裏通りはいつもしっとりと濡れているようだ。
別府の街は栄華を極めた当時の様々な思い出と共に小さかった私の心にもかすかながら、当時の「女」たちの悲しい出来事を見聞きした。私には何事かも分からなかったが、様々な別れがあったのだろう。旅館の廃業や裏切り、栄華を極めただけに、宴の後の人々の憎しみや対立などなど、路地の浦々にその生き様が刻まれているようでならない。小さななお地蔵様が赤いよだれかけをして立っている。今でもこの町はいろんな人々の思いと一緒に息づいているのだ。浜脇・流川の裏通りは何て魅力的な街なんだろうと思わずにはいられない。
新京楼
私の自宅の説明もしておこう。私の両親は戦後この地に越してきた。ここは杉の井旅館の経営者が所有していた農園だった。終戦後、農地解放で全て小作人に取られないようにと、親類の地主が両親を送り込んだという経緯がある。ところで、今の私の家はとても古い家だ。明治か大正時代に建てられた遊郭の別荘だったらしい。田舎では屋号で人を呼ぶが、私はよく、「新京楼の小坂さんか」と、村の人に呼ばれていた。新京楼とは別府にあった遊郭の名前で、そこの別荘だったのだという。だから家の造りもちょっと変わっている。旅館のように回り廊下があったり、丸窓があったり、灯籠があったり、農家の屋敷にはどうしても見えない。こんな山奥にお忍びのお客様が来ていたのだろうか。何だかこの地でも様々な遊女の念が渦巻いているのかもしれない。
私がこんな物語を書くきっかけになったのも、誰かの情念の力によって私に書かせているのかもしれない。そんな不思議な気配を感じながら私は、この物語の続きを書こうと思う。
中庭の池に溺れる
私の家は農家にしては部屋数が10以上あある大きな家だった。母屋には幅が2メートル以上ある廊下が走り、別棟に続く。そして向かい合った回り廊下沿いにそれぞれの部屋がたたずんでいた。戦後はここにせんべいを焼いて、それを高崎山の観光客に売って生計を立てていた夫婦が住んでいた。もう一家族は戦前から住んでいた母子で、同じく高崎山で観光客相手の土産物屋をやっていた。そこに我が家族が入って来たのだという。そして、母は大分大学生相手の下宿屋もやっていた。だから母も父もたいそう働き者だった。私の父は高崎山の木を無断で切り出してはリヤカーに積んで別府の旅館に売りに行った。その帰りに、今度は旅館の金肥をもらって帰っては畑の肥料にしていたという。このような連なった部屋に様々な家族が暮らしていたのだ。
そんな我が家に5歳ころの私は大学生の部屋に行って彼らと一緒に遊ぶのが一番の楽しみだった。そんなある日のこと、私は親父の丹前を羽織って、引きづりながら大学生の奥田さんの部屋に遊びに行こうと周り廊下を駆けていった。すると小さな廊下の端に丹前の裾が引っかかって、私はそのまま庭の方へと転げ落ちてしまったのだ。すると運悪くそこはひょうたん池の真ん中で、私は頭から池に飛び込んでしまったのだ。その時の恐怖はいまだに脳裏に焼き付いている。私は目の前が真っ暗になり、おまけに頭から池に飛び込んだのだから息も出来ないで、ただもがいていたのだろう。そこに部屋にいた奥田さんが急変に気づいてくれて、ずぶ濡れの私を池から引きずり上げてくれたのだ。だから奥田さんは私のいのちの恩人なんだ。
朝見川に流した涙
私には妻や家族がいた。母が逝ってしまった今は、そのほとんど全てをなくしてしまった。夫婦の愛情や家族の絆というものは壊れるときは一気に崩壊するものだ。夫婦はもともと赤の他人がたまたま一緒に生活をするようになり、その結果子供ができたぐらいのことだから壊れかかったら面白いほど崩壊のスピードは早い。次の彼女ともよく喧嘩した。私は喧嘩した後は、洗面器に石けんとタオルを入れて浜脇高等温泉によく行ったものだ。
そして、風呂上がりの火照った身体を冷やすように朝見川沿いの道を上流までよく歩いた。その道沿いには洗濯物の洗剤の臭いや温泉に混じった石けんの臭いなど様々な生活の臭いが私に押し寄せてくる。薄汚れた川面には鯉が泳いでいたり、ボラの稚魚が群れていたりする。寂しい私には何の関係もなく、時は動いている。私は、彼女にどう謝ろうかと考え、歩きながら、ふと川面に目を落とした。すると、赤いタオルのようなものが下流に向かって流れて行くのを見た。あれは私の一番大切な彼女への愛情。もしくは私の涙が一杯入った涙袋だったのではないかと、ふと私は思った。
私は浜脇の街を流れるこの朝見川の両岸を歩きながら、その両脇にたたずむ家々の生活の臭いを嗅ぎながら散歩するのがたまらなく好きだ。
by nonukes
| 2013-10-21 18:31
| 小坂農園 薪ストーブ物語
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