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小坂正則の個人ブログ

反原発子育て記の3「原発を支えてきた“もの”は実は自分の心の中にあったりして…」

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原発を支えてきた“もの”は実は自分の心の中にあったりして…
小坂正則
大分から目と鼻の先にある伊方原発から反原発運動を始める

 私が川崎の郵便局から大分の郵便局に転勤になって、故郷に帰ってきたのが1985年の秋でした。神奈川に10年あまり住んで、ここで子どもたちを育てるのはかわいそうだと思ったのです。土や自然に触れる子育てをしたいという妻の希望もありました。
 大分に帰って、半年あまり経った86年4月26日にチェルノブイリ原発事故が起こり、8000キロも離れた日本にも放射能が降ってきたのです。ところが、チェルノブイリ事故の全貌がまだ分かっていない5月のはじめに、海を隔てた四国、愛媛県の伊方原発3号機の増設許可が国から下りたのです。チェルノブイリ原発事故以後、最初に建設許可が降りた原発です。伊方原発は私の住んでいる大分市からはわずか70キロ足らずです。「チェルノブイリ原発事故のような大事故が起これば死の街になる」という不安に駆られました。「私の住んでいる大分市の目と鼻の先にある原発の建設に、私たちは何の異議も唱えるすでがない」ということにやり場のない憤りを感じたものです。しかも伊方原発建設反対運動は住民ぐるみの激しい戦いを繰り広げてきたというのです。
 私たちが伊方原発見学と現地の反対派の皆さんを訪ねたのが86年の夏だったのですが、そこで反対派の人びとから「これまで16年間たたかってきたが大分から来てくれたのはあなた方が初めてだ」と言われたのです。それほど県境を越えれば原発反対運動は成り立ち得なかったのです。しかしチェルノブイリ事故が国境を越えて日本まで放射能が飛んできたのですから、原発反対運動が分断されて来た状況は86年からは、私たち自身で越えなければならない課題だったのです。大分では「伊方原発に反対する大分市民の会」という伊方原発に反対する市民グループが、ツアーに参加した13名の仲間により始まりました。
 その2年後に伊方原発出力調整実験反対運動が起こり、大分の主婦の呼びかけで全国から5000人以上の市民が高松にある四国電力本店へ押しかけてたたかわれました。その当時には大分には20団体を超す反原発の市民団体がありました。しかし、4年後の1993年には、それまであった数え切れないほどの反原発団体も1つか2つにまで減ってしまいました。市民運動を続けるということは並々ならぬエネルギーが必要ですし、それを支え続ける人びとの大変な時間とお金の犠牲と熱意がなければ出来ないことです。それに何も法律に違反するようなことを一切やっていないにもかかわらず、反原発運動をやっている者は過激派のレッテルを貼られて、陰に日に様々な嫌がらせを受けてきました。だから、気軽に空き缶拾いをするボランティア団体のような多くの市民が気軽に参加する運動には決して広がらないのです。

お金の恐ろしさを伊方原発反対派の方々に教えられた

 私たちの反原発・脱原発運動に対して、私に好意的な人からもよくこのようなことを言われたものです。「反原発運動は普通の人には近寄りがたい」とか「電力会社と対立ではなく話し合う姿勢が大事」などです。だからというわけでもないのですが、私はこれまで26年間、出来る限り明るく、楽しそうに振る舞って来ました。しかし、考えてみてください。私たちはこれまで電力会社との話し合いを拒否したことは一度もありません。向こうは常に拒否しますが。また電力化会社は私たちから一方的に取った電気料金で稼いだお金を湯水のように使い、酒や女と札束で反対派を切り崩し、警察やマスコミまで味方に付けて“やりたい放題”をやって来たのです。反対派は弱小組織で、しかも身銭を切って反対を続けてきたのですから、最初から勝ち目などない抵抗運動だったのです。それが伊方原発反対運動は42年、上関原発反対運動は29年というように長期間続いたということは奇跡だと言ってもいいでしょう。それほどの長い年月、現地の方々は人生のすべてを捧げてたたかってこられたのです。伊方原発反対八西連絡協議会代表の広野房一さんが私に話してくれたことがあります。広野さんは「現地の反対運動は小さくなることはあっても大きくなることはない。1円でも電力会社からお金をもらえば二度と反対はできない」といいました。そこで私は「反対派を寝返って推進派に行ってしまった方も、チェルノブイリの事故が起こって、やはり原発は怖いから反対しようと思う人もいるかもしれないではないですか。だからそんな人もまた反対派に受け入れてやればいいじゃないですか」と言うと、広野さんは「私たち反対派は帰ってくるのを拒みはしない。しかし、彼ら自身がやましい思いがあるから私たちを批判して二度と帰っては来ない。お金というものはそれほど怖いものなんだよ」と静かに自分に言い聞かせるように話してくれました。

自主規制・自己規制の呪縛から解き放たれよう  

 なぜこれまで、原発をめぐる真実が多くの国民に届かなかったのでしょうか。
 3.11フクシマ以後、マスコミはこれまで何も知らなかったかのように原発村社会のウソを暴いていますが、住民説明会で電力会社の動員や、やらせ発言などは現場の新聞記者も私たちもみんな知っている公然の事実でした。核燃料サイクルのあり得ないウランのリサイクルも、モックス燃料が普通の原発の燃料よりも1.5倍高くて、しかもモックス燃料の再処理のめどもないのに普通の原発で燃やす矛盾を。高レベル廃棄物を埋捨てる場所など日本中どこにもないことを。原発の電気が5円や6円などではなくて、実は火力よりも高いことを。これらすべてのことを私たちは3.11以前から知っていたし、その真実を訴えていました。しかし、それを自主規制の名の下に報道しなかったのはNHKを頂点としたマスコミ各社なのです。 また、良心的なごく少数の反対派の学者の話ではなく、御用学者やNHKの解説を信じた多くの「思考停止した国民」の責任も大きいかもしれません。いくら私たちが大きな声で訴えても、声が大きければ大きいほど異常な人たちのように見えて、思考停止した人びとの耳には聞こえなかったのです。もちろん現場の記者は私たちのことを積極的に書いてくれましたし、良心的な記者もたくさんいました。でもマスコミの上層部や経営者はみな原発村の一員だったのです。
 このようなことがありました。私の職場の郵便局の同僚に聞いた話です。彼の近くに住む知り合いの警察官から「小坂を知っているか。やつは虫も殺さないような顔をしているが夜な夜な人殺しをしている過激派なのだ」と。また、私が昭和天皇が死去して大嘗祭とかいう祭典をやっている時、「原発いらない人びと」という参院選の総括会議で青森に年休をとって参加していたら、組合事務所に公安職員が来て「小坂が大嘗祭でミサイルを発射するかもしれないのでどこに行ったか調べている」と組合幹部に聞いてきたというのです。組合に行くぐらいだから、当局には真っ先に聞きに行ってるでしょう。私は幸いにも公務員だったので、正当な理由がなければ職場を首にはされませんでしたが、中小企業の社員だったら「過激派の疑いがある」だけで、私はとっくの昔に首になっていたでしょう。私への嫌がらせは松下さんに比べれば屁でもないのですが、こんなこともありました。
 私の恩師である松下竜一氏は赤軍派の容疑で1988年に家宅捜査を受けたことがありました。原発へのフレームアップではありませんが、松下竜一氏を地域から孤立させ作家としての社会的地位を抹殺しようと仕組んだ権力弾圧でした。もちろん家宅捜査が違法・不当であるという国家賠償裁判で勝利しましたが、マスコミによって流された過激派のレッテルはそう簡単には晴れなかったと思います。
 このような連中を私は「原発マフィア」と呼んでいるのですが、彼らは原発反対派は過激派だというキャンペーンを流し続けてきました。さすがに今日ほどウソがバレてしまっては、昔のように公然と違法なフレームアップはしないかもしれないのですが。そんな支配者のプロパガンダを支えていたのは国民の自主規制・自己規制だと思います。普通の市民は、私たちのように「会社を首になりさえしなければ出世などどうでもいい」という人は極少数でしょう。でも、このようなフレームアップが逆に「小坂のように警察に嫌がらせを受けるのは怖い」という自主規制の効果を生むのかもしれないのですから、複雑な思いがします。だから私はこれまであまり、この事実は語ってきませんでした。「反原発運動をやるにはそこまで覚悟がいるのか」と、思われたら誰も仲間になってくれないと思ったからです。
 でもこれらの私たちが思い込んでいる「あたりまえ」を一度疑って見る必要を私は強く感じます。「私の常識が実は誰かにすり込まれたウソではないか」と疑って見るのです。「原発がなければ電気が足りない」とか、「原発から撤退したら企業が日本から逃げ出してしまう」とか「原発をすべて止めたら電気料金が今の2倍になる」などすべてがウソなのです。
私たちの脱原発運動は、このような「あなたが思っている「事実」をまずは疑って見る」ことから始まるのではないでしょうか。自分の頭で考えて、自分で学び、自分の言葉で話すことで、誰かにすり込まれた「真実」が少しずつ剥がれて、もう一つの真実を発見できるのではないかと私は考えています。

緑の政治と文化を取り戻そう

 そんな自分に向き合ってきた人びとが3.11以後、私の周りにはたくさん生まれています。 みんな自分らしい暮らしを求めています。無理して人と同じことをする必要などないことに気づいた人びとです。学校に行ったらいじめで殺されるくらいなら、無理して学校になんか行かなくてもいいし、会社で鬱にさせられるなら、ドロップアウトして半農半Xの楽しい暮らしだってあるのです。私は脱原発と脱経済成長の社会をめざして、緑の生活を取り戻す暮らしを、私は周りの仲間と一緒に模索しています。背伸びせずに身の丈にあった暮らしが、いつか原発に頼らない社会をつくるということを信じているからです。人はみなそれぞれ違うのですから、その違いを大切にしておつきあいをすることが一番大事なことではないでしょうか。他人を気にしている自分の心の中にこそ、あなたが変われない原因があるのではないでしょうか。耳を閉じているあなたの耳が開いてくれることを私は切に願っています。だって、フクシマを二度と繰り返すわけにはいかないじゃないですか。


一番下の写真の川の向こう側に見える畑は2004年に宮崎県綾町に行く途中で見た武者小路実篤が作った「新しき村」です。
Wikipediaより
武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、1885年(明治18年)5月12日 - 1976年(昭和51年)4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇 ... 社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設した。
by nonukes | 2012-09-10 20:53 | 反原発オヤジの子育て記 | Comments(0)

  小坂正則

by nonukes