2012年 08月 05日
今こそ松下竜一の「暗闇の思想」を!読書会を開催しました
第一回松下竜一読書会「暗闇の思想を読む」を開催しました
第一回目は梶原得三郎さんと新木さんのゲストによる読書会でした
8月4日の松下竜一読者会は豪華なゲストで開催されました。梶原得三郎さんは、ご存じの方も多いと思いますが、松下竜一の無二の親友であり、また同志でもあった方です。その梶原さんに「なぜ松下竜一が暗闇の思想を書いたのか」を話してもらいました。そして松下竜一研究家の新木さんにも松下竜一を解説してもらいました。
最初に下に添付しています、1972年12月に朝日新聞文芸欄に寄稿した「暗闇の思想」の読み合わせと、1991年に私たちが開催した蒲江キャンプで講演してもらった「私がなぜ暗闇の思想を書いたか」を読み合わせしました。こちらは海鳥社より「暗闇に耐える思想」(1400円税別)という題名で販売されています。
なぜ今「暗闇の思想」か
今回の読書会を開催したのは3つの理由からでした。1つは、この松明楼は松下竜一資料館ですから松下竜一読書会を開催するのは当たり前ですね。第一回目が「暗闇の思想」だということも至極当たり前のことです。理由の2つめに、ご本人の前でこのようなことを言うのは失礼極まりないのですが、この企画を考えた本当の理由を、ご本人には言わなかったのですが、梶原得三郎さんが元気な内に「人間・梶原得三郎」の魅力を多くの方に知ってほしかったのです。というのも、この間、松明楼を訪れる方々の多くが、「存命の内に松下竜一に一度会っていたかった」という声をたくさん聞きました。しかし既に亡くなった松下竜一にはいくら願っても会えませんが、梶原得三郎さんには会えますので、今の内に会って、梶原得三郎さんの生き方を聞いて、その中から何か得るものがあったら得てほしいと願ったのです。理由の3つめは、特に若者に松下竜一の「暗闇の思想」を学んでほしいと思ったからです。今回の読書会には残念ながら若者の参加はありませんでした。媚びを売って若者に来てもらっても仕方ありませんので、またそんな機会もあるでしょう。
「暗闇の思想読書会」雑感
松下竜一が1972年に豊前火力発電所建設反対運動の思想的な根拠として「暗闇の思想」を書いたのですが、それから40年たった今も私たちは同じ過ちを繰り返しているというか、そこから何も学ぶことが出来なかったのだではないかと改めて思います。すでに72年から73年にかけて石油ショックが世界を襲い、「停電するかもしれない」という危機に日本経済は直面します。しかし、彼はこのように看破します。ちょと長いのですが引用します。
電力側が恫喝をかけてくる電力危機論。あの72年から73年、74年にかけて、すさまじい電気事業連合会のキャンペーンが続きました。「今にも電気が止まりますよ。奥さん、パーマにも行けなくなりますよ」というようなキャンペーンが展開されました。そういうキャンペーンにみんな呑み込まれていくんですね。逆に、「電力危機なんか来るなら来てくれ」というふうに居直っていかなければならない。なぜならば、電力危機というのは、我々庶民にとって危機でもなんでもない。それで不便にはなるだろうけれど、貧しくなるかもしれないけれど、命を脅かされるわけではない。電力危機というのは、実はそれを盛んに言い立てる側にとっての危機なんだということを我々は見抜かねばならない。我々にとっての危機ではないんだと。「電力危機が来ますよ、来ますよ。恐ろしいですよ」といい続けている側にとっての危機なんですね。電力会社と体制を支配している企業にとって、それは紛れもない危機である。しかし、我々にとってそれは危機ではないんだと。「電力危機、どうぞ来て下さい」というところまで居直って拮抗しなければ、我々はやっぱり敗けていく。現実に敗けてきたと思うんですね。(暗闇に耐える思想より引用)
3.11以後の私たちは、今度こそ電力会社や政府の言う「エネルギー危機というウソ」に騙されることなく、私たち市民1人ひとりが自分の頭で考えて、「私たちのこれからの生き方やエネルギーをどうするのか」という議論を重ねて、この国のあり方も含めた方向性を導き出さなければならないと、私は思うのです。また松下竜一が豊前火力発電所の建設反対運動の中で学んだ貴重な経験から私たちが何かを学び取るなら、これほどすばらしいことはないと私は思います。
写真にありますように8月の終わりには再新版「暗闇の思想を」が蘇ります。ぜひみなさん読んでください。詳しくは影書房のホームページをご覧ください。当松明楼でも割引価格で販売します。みなさんも一度松明楼へお越しください。松明楼は年中無休ですが、私が留守の場合は開館していませんので、来る前にお電話で確認願います。電話090-1348-0373(小坂)
「暗闇の思想」 松下 竜一
あえて大げさにいえば、「暗闇の思想」ということを、この頃考え始めている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。きっかけは電力である。原子力を含めて、発電所の公害は今や全国的に建設反対運動を激化させ、電源開発を立ち往生させている。もともと、発電所建設反対運動は公害問題に発しているのだが、しかしそのような技術論争を突き抜けて、これが現代の文化を問いつめる思想性をも帯び始めていることに、運動に深くかかわる者ならすでに気づいている。
かつて佐藤前首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気を止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、止めてもらいましょう」と、きっぱりと答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化を拒否出来る思想が。
今、私には深々と思い起こしてなつかしい暗闇がある。10年前に死んだ友と共有した暗闇である。友は極貧のため電気料を滞納した果てに送電を止められていた。私は夜ごとこの病友を訪ねて、暗闇の枕元で語り合った。電気を失って、本当の星空の美しさがわかるようになった、と友は語った。暗闇の底で、私たちの語らいはいかに虚飾なく青春の思いを深めたことか。暗闇にひそむということは、何か思惟を根源的な方向へと鎮めていく気がする。それは、私たちが青春のさなかにいたからというだけのことではあるまい。皮肉にも、友は電気のともった親戚の離れに移されて、明るさの下で死んだ。友の死とともに、私は暗闇の思惟を遠ざかってしまったが、本当は私たちの生活の中で、暗闇にひそんでの思惟が今ほど必要な時はないのではないかと、この頃考え始めている。
電力が絶対不足になるのだという。九州管内だけでも、このままいけば毎年出力50万キロワットの工場をひとつずつ造っていかねばならぬという。だがここで、このままいけばというのは、田中内閣の列島改造政策遂行を意味している。
年10%の高度経済成長を支えるエネルギーとしてなら、貪欲な電力需要は必然不可欠であろう。しかも悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効率の枠内で解消し難い。そこで電力会社や良識派と称する人びとは、「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で、公害を免罪しようとする。
国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならぬという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに――誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。
じゃあチョンマゲ時代に帰れというのかと反論が出る。必ず出る短絡的反論である。現代を生きる以上、私とて電力の全面否定という極論をいいはしない。今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。日本列島改造などという貪欲な電力需要をやめて、しばらく鎮静の時を持とうというのである。その間に、今ある公害を始末しよう。火力発電所に関していえば、既存工場すべてに排煙脱硫装置、脱硝装置を設置し、その実効を見きわめよう。低硫黄重油、ナフサ、LNGを真に確保できるのか、それを幾年にわたって実証しよう。温排水対策も示してもらおう。しかるのち、改めて衆議して建設を検討すべきだといいたいのだ。たちまち反論の声があがるであろう。経済構造を一片も知らぬ無名文士のたわけた精神論として一笑に付されるであろう。だが、無知で素朴ゆえに聞きたいのだが、いったいそんなに生産した物は、どうなるのだろう。タイの日本製品不買運動はかりそめごとではあるまい。公害による人身被害精神荒廃、国土破壊に目をつぶり、ただひたすらに物、物、物の生産に驀進して行き着く果てを、私は鋭くおびえているのだ。「いったい、物をそげえ造っちから、どげえすんのか」という素朴な疑問は、開発を拒否する風成で、志布志で、佐賀関で漁民や住民の発する声なのだ。反開発の健康な出発点であり、そしてこれを突きつめれば「暗闇の思想」にも行き着くはずなのだ。
いわば発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都会志向のキャッチフレーズで喧伝されるなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、「暗闇の思想」があらねばなるまい。まず、電力がとめどなく必要なのだという現代神話から打ち破らねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへの厳しい反省でそれは可能となろう。
冗談でなくいいたいのだが、「停電の日」をもうけていい。勤労にもレジャーにも加熱しているわが国で、むしろそれは必要ではないか。月に一夜でもテレビ離れした「暗闇の思想」に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないかどうか、冷えびえとするまで思惟してみようではないか。私には、暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自立的なものでなければならぬという予感がしている。
(1974年3月刊 朝日新聞社「暗闇の思想を」)
松下竜一著「暗闇の思想を」近日発売!!
小坂正則著「市民電力会社をつくろう」発売中!!
第一回目は梶原得三郎さんと新木さんのゲストによる読書会でした
8月4日の松下竜一読者会は豪華なゲストで開催されました。梶原得三郎さんは、ご存じの方も多いと思いますが、松下竜一の無二の親友であり、また同志でもあった方です。その梶原さんに「なぜ松下竜一が暗闇の思想を書いたのか」を話してもらいました。そして松下竜一研究家の新木さんにも松下竜一を解説してもらいました。
最初に下に添付しています、1972年12月に朝日新聞文芸欄に寄稿した「暗闇の思想」の読み合わせと、1991年に私たちが開催した蒲江キャンプで講演してもらった「私がなぜ暗闇の思想を書いたか」を読み合わせしました。こちらは海鳥社より「暗闇に耐える思想」(1400円税別)という題名で販売されています。
なぜ今「暗闇の思想」か
今回の読書会を開催したのは3つの理由からでした。1つは、この松明楼は松下竜一資料館ですから松下竜一読書会を開催するのは当たり前ですね。第一回目が「暗闇の思想」だということも至極当たり前のことです。理由の2つめに、ご本人の前でこのようなことを言うのは失礼極まりないのですが、この企画を考えた本当の理由を、ご本人には言わなかったのですが、梶原得三郎さんが元気な内に「人間・梶原得三郎」の魅力を多くの方に知ってほしかったのです。というのも、この間、松明楼を訪れる方々の多くが、「存命の内に松下竜一に一度会っていたかった」という声をたくさん聞きました。しかし既に亡くなった松下竜一にはいくら願っても会えませんが、梶原得三郎さんには会えますので、今の内に会って、梶原得三郎さんの生き方を聞いて、その中から何か得るものがあったら得てほしいと願ったのです。理由の3つめは、特に若者に松下竜一の「暗闇の思想」を学んでほしいと思ったからです。今回の読書会には残念ながら若者の参加はありませんでした。媚びを売って若者に来てもらっても仕方ありませんので、またそんな機会もあるでしょう。
「暗闇の思想読書会」雑感
松下竜一が1972年に豊前火力発電所建設反対運動の思想的な根拠として「暗闇の思想」を書いたのですが、それから40年たった今も私たちは同じ過ちを繰り返しているというか、そこから何も学ぶことが出来なかったのだではないかと改めて思います。すでに72年から73年にかけて石油ショックが世界を襲い、「停電するかもしれない」という危機に日本経済は直面します。しかし、彼はこのように看破します。ちょと長いのですが引用します。
電力側が恫喝をかけてくる電力危機論。あの72年から73年、74年にかけて、すさまじい電気事業連合会のキャンペーンが続きました。「今にも電気が止まりますよ。奥さん、パーマにも行けなくなりますよ」というようなキャンペーンが展開されました。そういうキャンペーンにみんな呑み込まれていくんですね。逆に、「電力危機なんか来るなら来てくれ」というふうに居直っていかなければならない。なぜならば、電力危機というのは、我々庶民にとって危機でもなんでもない。それで不便にはなるだろうけれど、貧しくなるかもしれないけれど、命を脅かされるわけではない。電力危機というのは、実はそれを盛んに言い立てる側にとっての危機なんだということを我々は見抜かねばならない。我々にとっての危機ではないんだと。「電力危機が来ますよ、来ますよ。恐ろしいですよ」といい続けている側にとっての危機なんですね。電力会社と体制を支配している企業にとって、それは紛れもない危機である。しかし、我々にとってそれは危機ではないんだと。「電力危機、どうぞ来て下さい」というところまで居直って拮抗しなければ、我々はやっぱり敗けていく。現実に敗けてきたと思うんですね。(暗闇に耐える思想より引用)
3.11以後の私たちは、今度こそ電力会社や政府の言う「エネルギー危機というウソ」に騙されることなく、私たち市民1人ひとりが自分の頭で考えて、「私たちのこれからの生き方やエネルギーをどうするのか」という議論を重ねて、この国のあり方も含めた方向性を導き出さなければならないと、私は思うのです。また松下竜一が豊前火力発電所の建設反対運動の中で学んだ貴重な経験から私たちが何かを学び取るなら、これほどすばらしいことはないと私は思います。
写真にありますように8月の終わりには再新版「暗闇の思想を」が蘇ります。ぜひみなさん読んでください。詳しくは影書房のホームページをご覧ください。当松明楼でも割引価格で販売します。みなさんも一度松明楼へお越しください。松明楼は年中無休ですが、私が留守の場合は開館していませんので、来る前にお電話で確認願います。電話090-1348-0373(小坂)
「暗闇の思想」 松下 竜一
あえて大げさにいえば、「暗闇の思想」ということを、この頃考え始めている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。きっかけは電力である。原子力を含めて、発電所の公害は今や全国的に建設反対運動を激化させ、電源開発を立ち往生させている。もともと、発電所建設反対運動は公害問題に発しているのだが、しかしそのような技術論争を突き抜けて、これが現代の文化を問いつめる思想性をも帯び始めていることに、運動に深くかかわる者ならすでに気づいている。
かつて佐藤前首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気を止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、止めてもらいましょう」と、きっぱりと答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化を拒否出来る思想が。
今、私には深々と思い起こしてなつかしい暗闇がある。10年前に死んだ友と共有した暗闇である。友は極貧のため電気料を滞納した果てに送電を止められていた。私は夜ごとこの病友を訪ねて、暗闇の枕元で語り合った。電気を失って、本当の星空の美しさがわかるようになった、と友は語った。暗闇の底で、私たちの語らいはいかに虚飾なく青春の思いを深めたことか。暗闇にひそむということは、何か思惟を根源的な方向へと鎮めていく気がする。それは、私たちが青春のさなかにいたからというだけのことではあるまい。皮肉にも、友は電気のともった親戚の離れに移されて、明るさの下で死んだ。友の死とともに、私は暗闇の思惟を遠ざかってしまったが、本当は私たちの生活の中で、暗闇にひそんでの思惟が今ほど必要な時はないのではないかと、この頃考え始めている。
電力が絶対不足になるのだという。九州管内だけでも、このままいけば毎年出力50万キロワットの工場をひとつずつ造っていかねばならぬという。だがここで、このままいけばというのは、田中内閣の列島改造政策遂行を意味している。
年10%の高度経済成長を支えるエネルギーとしてなら、貪欲な電力需要は必然不可欠であろう。しかも悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効率の枠内で解消し難い。そこで電力会社や良識派と称する人びとは、「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で、公害を免罪しようとする。
国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならぬという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに――誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。
じゃあチョンマゲ時代に帰れというのかと反論が出る。必ず出る短絡的反論である。現代を生きる以上、私とて電力の全面否定という極論をいいはしない。今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。日本列島改造などという貪欲な電力需要をやめて、しばらく鎮静の時を持とうというのである。その間に、今ある公害を始末しよう。火力発電所に関していえば、既存工場すべてに排煙脱硫装置、脱硝装置を設置し、その実効を見きわめよう。低硫黄重油、ナフサ、LNGを真に確保できるのか、それを幾年にわたって実証しよう。温排水対策も示してもらおう。しかるのち、改めて衆議して建設を検討すべきだといいたいのだ。たちまち反論の声があがるであろう。経済構造を一片も知らぬ無名文士のたわけた精神論として一笑に付されるであろう。だが、無知で素朴ゆえに聞きたいのだが、いったいそんなに生産した物は、どうなるのだろう。タイの日本製品不買運動はかりそめごとではあるまい。公害による人身被害精神荒廃、国土破壊に目をつぶり、ただひたすらに物、物、物の生産に驀進して行き着く果てを、私は鋭くおびえているのだ。「いったい、物をそげえ造っちから、どげえすんのか」という素朴な疑問は、開発を拒否する風成で、志布志で、佐賀関で漁民や住民の発する声なのだ。反開発の健康な出発点であり、そしてこれを突きつめれば「暗闇の思想」にも行き着くはずなのだ。
いわば発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都会志向のキャッチフレーズで喧伝されるなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、「暗闇の思想」があらねばなるまい。まず、電力がとめどなく必要なのだという現代神話から打ち破らねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへの厳しい反省でそれは可能となろう。
冗談でなくいいたいのだが、「停電の日」をもうけていい。勤労にもレジャーにも加熱しているわが国で、むしろそれは必要ではないか。月に一夜でもテレビ離れした「暗闇の思想」に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないかどうか、冷えびえとするまで思惟してみようではないか。私には、暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自立的なものでなければならぬという予感がしている。
(1974年3月刊 朝日新聞社「暗闇の思想を」)
松下竜一著「暗闇の思想を」近日発売!!
小坂正則著「市民電力会社をつくろう」発売中!!
by nonukes
| 2012-08-05 09:30
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