2012年 07月 20日
なぜ私が子育て記を書こうと思い立ったのか…
反原発オヤジのハチャメチャ子育て記 小坂正則
なぜ私が子育て記を書こうと思い立ったのか
こんなタイトルの話を書くというのは、日々の記録のはずなので、しかもリアルタイムに書かなければ臨場感が出ないのでしょうが、年寄りの自慢話を、しかも20年も前のことを書いてもしょうがないと、みなさんから批判されることを覚悟で、昔を思い出しながら書いていこうと思うのです。
何で私のような、もう60歳を間近な爺さんが、それも子育てどころか、家庭内別居を2年ほど続けて、その後離婚した。子どもを育てたと言うには、どう見ても失格の部類に属する男が、何を偉そうなことを言うのかと、これまた批判されるかもしれませんが、やはり、書かずにはいられない理由があるのです。
それは、混沌とした現在社会で、将来に明るい展望や夢を子どもたちが持てないような時代に、子どもたちは何を夢見て、何を目標にして生きたらいいのかを見失っているように思えてならないのと、親たちも自分の将来に不安こそあれ、子供と一緒に夢を語れる時代ではなくなっているから、そのたこつぼのような深みに社会全体がはまってしまっている情況の中で、そこからどうすれば抜け出せるかを私なりに考えてみたかったからです。もちろん「私のような中途半端な人間が偉そうに子育て論や教育論や人生論を語るな」と、これまたおしかりを受けるかもしれませんが、私にはこれだけは自慢できることがあるのです。それはずいぶん子どもたちへの接し方を間違ったりしたのですが、彼らとは真正面から真剣に向き合って来たこと。子どもを守るのは学校や社会ではなく、私たち両親しかいないと常に思っていたからです。そして昔から言われることわざの通り「子どもは親の背中を見て育つ」といことを常に頭に入れて、「私の生き方が子どもへの教育だ」と、常に思って行動していたからです。だから私や妻が一生懸命に生きることが何よりも大切なことで、子どもはほっといても自然に育つものだと思っていました。
反原発運動の家庭は女性が強い
私たちの世代がちょうど現代のいわゆる男女平等社会の走りだと思います。だから料理を作ったり、洗濯をしたり、子育てを一緒にやったりすることにほとんど違和感のない世代なのだと思います。特に反原発運動を若いときから夫婦で一緒にやってきたという、私の仲間はたいていの家庭が妻の方が強い家庭が大半でした。夫婦一緒に反原発運動をやっている仲間たちはどこも妻がリーダーシップを取っていて、男は後からついてくるというような関係でしたので、女性の方が強いという力関係はあたりまえでした。しかし、妻だけが反原発運動をやっていて亭主は無関心という家庭は旧態依然の男社会のようでしたのでそんな方は私たちを見て「亭主がそこまでしてくれる家庭なんて夢のようでうらやましい」とよく話していたことを覚えています。
私たちの仲間が27年前のチェルノブイリ原発事故後、大分で始めた反原発運動の特徴として、まず、ほとんどが30代前半の若者で、しかも夫婦一緒に小さな子どもを抱えての運動だったということです。しかも女性が主導権を握っていたことと、亭主の職業は公務員か百姓が大半でした。なぜ公務員と百姓かというと、それには理由がありました。普通のサラリーマンは市民運動などしていたら会社を首になります。日本の会社には日本国憲法など存在しません。社長の気にくわない社員は首にされてしまいます。だから当時の日本では公務員か自営業者、それもお客様のいない自由な百姓か労働三権が保証された公務員しか市民運動はできなかったのでしょう。もちろん公務員だから何でも自由にできたわけではありません。それこそ出世は完全に棒に振らなければ運動などできません。まあ、公務員の大半は出世などしたいとは思っていない者の方が多いのですが。
さて、私の家庭の場合はどうかと聞かれたらちょっと微妙でしたね。確かに彼女も強かったのですが、私も主義主張ははっきりしていたので、互いにぶつかってはいたようです。
私たちの運動の特徴として、みな貧しかったことが挙げられます。現代の脱原発運動も昔よりはもっと貧しいようですが、当時の市民運動も大変貧しい仲間が大半でした。それも、小さな子どもを抱えた夫婦が一緒に運動をするのですから、合宿など計画するときはたいてい1人千円から1500円が相場でした。家族全員で5000円くらいです。泊まって食事して5000円くらいです。しかし、このような格安合宿は大分だけのようでした。
90年代に別府の日本山妙法寺で上関の方々をお呼びして合宿をしたときですが、その時は確か飲んで食って泊まって1人千円だったと思います。お寺ですから会場費はゼロ。酒は持ち寄り、料理もみんなで作るので千円で十分余るのです。余ったお金はお寺へお布施として置いて帰ったように思います。そんな格安合宿を私たちは「大分方式」と名付けていました。
そしてもう1つ大分方式の合宿には他にはない特徴があります。それは宴会の主役が女性だということです。男どもは料理の用意から後かたづけまで裏方でせっせと自分の役目を果たしていたのです。もちろん全員ではありませんが、私などはたいてい乾杯をしたあとは厨房に入って料理やつまみの用意をしたものです。わたしは有能な事務局長といわれていましたので、会計と宴会の手配など裏方に徹していました。もちろん女性も少しは手伝ってくれるのですが、どういうわけか男がふんぞり返って酒を飲むという場面はほとんどありませんでした。これは反原発運動の文化的な側面としてとても重要なことだと思います。そしてもう1つの特徴として、反原発運動は生協運動を抜きには語れないとも思います。食べ物の安全を求める母親の放射能汚染の不安や原発事故の恐ろしさが生協という組織を通じて母親の反原発運動を形成していったということだと思います。
私は川崎では生活クラブ生協と一緒に石けん運動をやっていたのですが、大分では直接生協に関わっていはいなかったので、そのへんのことはほとんど分かりませんが、生協が反原発運動を支えていたといっても決して言い過ぎではないと思います。
夫婦の関係がそのまま子どもとの関係を形作る
家族が社会の中で一番小さな組織です。だから夫婦関係がそのまま親子関係を形作るのだと思います。夫婦が絶対服従関係だったら、親子関係も絶対服従関係になりますよね。だから夫婦が平等な関係なら親子関係でも子どもの人権を守る親子対等な関係が成り立つのかなと思います。でも、親の特権を振りかざして、子どもたちには、ずいぶん私も専制君主ぶりを発揮したようには思いますが。そんな反省がないわけではありません。
でも、私は誰にも恥じることはなく自分の意志に従って生きて来ました。きっと私の子どもたちは「お前のオヤジは変わってるからな」とか「お前のところの両親は変わってる」などと友達にいわれたことだと思います。だって、小学校の体操服を私の妻は買うのを嫌って手作りの体操服を持たせていました。ところが短パンの横に赤と青の線が2本入っていたのですがスーパーで買ってきた体操服には線が入っていません。学校の先生から「線がないので線を付けてもらえませんか。もしくは学校指定の体操服を買ってもらえませんか」と連絡帳か電話かは覚えていませんが連絡があったようです。もしくは子どもにそのように親に云えと伝言したのかもしれません。すると彼女は赤と青のマジックを取り出して二本線を引いたのです。これには私も驚いてしまいました。「あんたさすがやねえ」と、私は彼女を称えたのですが、子どもが寝た後、「子どもがいじめられたり、ほかの子と違う服装に嫌そうだったら、そこまでしいない方がいいかもよ」と、忠告したことを覚えています。彼女は「あの子は大丈夫。そんな小さなことに動じる子どもではない」とキッパリ。確かに子どもは運動会でもマジックのインクが滲んだみんなと微妙に違う体操服を着て楽しそうに走り回っていました。なぜ、体操服を着せなかったのかと云えば、彼女たちはちょうどそのころ制服と男子の丸坊主に反対する運動をやっていたからだと思います。子どもながらにも、うちの子は「制服は何か知らないけど悪いんだ」と思っていたのでしょう。そういった意味では我が家版「偏向教育=まともな教育」を実施していたようです。
だから、学校を休ませることに何の抵抗もありませんでした。冬になると、鳥取の大山にスキーに毎年行っていたのですが、土曜日の夜に大分を出て、日曜日から火曜日までスキーを楽しんで水曜日に帰る日程でしたので、学校は休ませました。連絡帳に「スキーに行くので休みます」と、書くと、先生から「いいわね楽しんで来てね」などと書いていました。そのほかにも私はことあるごとに「今日は天気がいいから学校休んで父ちゃんと一緒に遊ぼうや」と、挑発するのですが、残念ながら私の挑発には誰も乗ってはくれずに「父ちゃんと遊んでたらバカになるから学校行くわ」と言って、ほとんど真面目に学校に行っていましたが。(つづく)
「市民電力会社をつくろう」の著書の紹介とNPOのHPへお越しください
なぜ私が子育て記を書こうと思い立ったのか
こんなタイトルの話を書くというのは、日々の記録のはずなので、しかもリアルタイムに書かなければ臨場感が出ないのでしょうが、年寄りの自慢話を、しかも20年も前のことを書いてもしょうがないと、みなさんから批判されることを覚悟で、昔を思い出しながら書いていこうと思うのです。
何で私のような、もう60歳を間近な爺さんが、それも子育てどころか、家庭内別居を2年ほど続けて、その後離婚した。子どもを育てたと言うには、どう見ても失格の部類に属する男が、何を偉そうなことを言うのかと、これまた批判されるかもしれませんが、やはり、書かずにはいられない理由があるのです。
それは、混沌とした現在社会で、将来に明るい展望や夢を子どもたちが持てないような時代に、子どもたちは何を夢見て、何を目標にして生きたらいいのかを見失っているように思えてならないのと、親たちも自分の将来に不安こそあれ、子供と一緒に夢を語れる時代ではなくなっているから、そのたこつぼのような深みに社会全体がはまってしまっている情況の中で、そこからどうすれば抜け出せるかを私なりに考えてみたかったからです。もちろん「私のような中途半端な人間が偉そうに子育て論や教育論や人生論を語るな」と、これまたおしかりを受けるかもしれませんが、私にはこれだけは自慢できることがあるのです。それはずいぶん子どもたちへの接し方を間違ったりしたのですが、彼らとは真正面から真剣に向き合って来たこと。子どもを守るのは学校や社会ではなく、私たち両親しかいないと常に思っていたからです。そして昔から言われることわざの通り「子どもは親の背中を見て育つ」といことを常に頭に入れて、「私の生き方が子どもへの教育だ」と、常に思って行動していたからです。だから私や妻が一生懸命に生きることが何よりも大切なことで、子どもはほっといても自然に育つものだと思っていました。
反原発運動の家庭は女性が強い
私たちの世代がちょうど現代のいわゆる男女平等社会の走りだと思います。だから料理を作ったり、洗濯をしたり、子育てを一緒にやったりすることにほとんど違和感のない世代なのだと思います。特に反原発運動を若いときから夫婦で一緒にやってきたという、私の仲間はたいていの家庭が妻の方が強い家庭が大半でした。夫婦一緒に反原発運動をやっている仲間たちはどこも妻がリーダーシップを取っていて、男は後からついてくるというような関係でしたので、女性の方が強いという力関係はあたりまえでした。しかし、妻だけが反原発運動をやっていて亭主は無関心という家庭は旧態依然の男社会のようでしたのでそんな方は私たちを見て「亭主がそこまでしてくれる家庭なんて夢のようでうらやましい」とよく話していたことを覚えています。
私たちの仲間が27年前のチェルノブイリ原発事故後、大分で始めた反原発運動の特徴として、まず、ほとんどが30代前半の若者で、しかも夫婦一緒に小さな子どもを抱えての運動だったということです。しかも女性が主導権を握っていたことと、亭主の職業は公務員か百姓が大半でした。なぜ公務員と百姓かというと、それには理由がありました。普通のサラリーマンは市民運動などしていたら会社を首になります。日本の会社には日本国憲法など存在しません。社長の気にくわない社員は首にされてしまいます。だから当時の日本では公務員か自営業者、それもお客様のいない自由な百姓か労働三権が保証された公務員しか市民運動はできなかったのでしょう。もちろん公務員だから何でも自由にできたわけではありません。それこそ出世は完全に棒に振らなければ運動などできません。まあ、公務員の大半は出世などしたいとは思っていない者の方が多いのですが。
さて、私の家庭の場合はどうかと聞かれたらちょっと微妙でしたね。確かに彼女も強かったのですが、私も主義主張ははっきりしていたので、互いにぶつかってはいたようです。
私たちの運動の特徴として、みな貧しかったことが挙げられます。現代の脱原発運動も昔よりはもっと貧しいようですが、当時の市民運動も大変貧しい仲間が大半でした。それも、小さな子どもを抱えた夫婦が一緒に運動をするのですから、合宿など計画するときはたいてい1人千円から1500円が相場でした。家族全員で5000円くらいです。泊まって食事して5000円くらいです。しかし、このような格安合宿は大分だけのようでした。
90年代に別府の日本山妙法寺で上関の方々をお呼びして合宿をしたときですが、その時は確か飲んで食って泊まって1人千円だったと思います。お寺ですから会場費はゼロ。酒は持ち寄り、料理もみんなで作るので千円で十分余るのです。余ったお金はお寺へお布施として置いて帰ったように思います。そんな格安合宿を私たちは「大分方式」と名付けていました。
そしてもう1つ大分方式の合宿には他にはない特徴があります。それは宴会の主役が女性だということです。男どもは料理の用意から後かたづけまで裏方でせっせと自分の役目を果たしていたのです。もちろん全員ではありませんが、私などはたいてい乾杯をしたあとは厨房に入って料理やつまみの用意をしたものです。わたしは有能な事務局長といわれていましたので、会計と宴会の手配など裏方に徹していました。もちろん女性も少しは手伝ってくれるのですが、どういうわけか男がふんぞり返って酒を飲むという場面はほとんどありませんでした。これは反原発運動の文化的な側面としてとても重要なことだと思います。そしてもう1つの特徴として、反原発運動は生協運動を抜きには語れないとも思います。食べ物の安全を求める母親の放射能汚染の不安や原発事故の恐ろしさが生協という組織を通じて母親の反原発運動を形成していったということだと思います。
私は川崎では生活クラブ生協と一緒に石けん運動をやっていたのですが、大分では直接生協に関わっていはいなかったので、そのへんのことはほとんど分かりませんが、生協が反原発運動を支えていたといっても決して言い過ぎではないと思います。
夫婦の関係がそのまま子どもとの関係を形作る
家族が社会の中で一番小さな組織です。だから夫婦関係がそのまま親子関係を形作るのだと思います。夫婦が絶対服従関係だったら、親子関係も絶対服従関係になりますよね。だから夫婦が平等な関係なら親子関係でも子どもの人権を守る親子対等な関係が成り立つのかなと思います。でも、親の特権を振りかざして、子どもたちには、ずいぶん私も専制君主ぶりを発揮したようには思いますが。そんな反省がないわけではありません。
でも、私は誰にも恥じることはなく自分の意志に従って生きて来ました。きっと私の子どもたちは「お前のオヤジは変わってるからな」とか「お前のところの両親は変わってる」などと友達にいわれたことだと思います。だって、小学校の体操服を私の妻は買うのを嫌って手作りの体操服を持たせていました。ところが短パンの横に赤と青の線が2本入っていたのですがスーパーで買ってきた体操服には線が入っていません。学校の先生から「線がないので線を付けてもらえませんか。もしくは学校指定の体操服を買ってもらえませんか」と連絡帳か電話かは覚えていませんが連絡があったようです。もしくは子どもにそのように親に云えと伝言したのかもしれません。すると彼女は赤と青のマジックを取り出して二本線を引いたのです。これには私も驚いてしまいました。「あんたさすがやねえ」と、私は彼女を称えたのですが、子どもが寝た後、「子どもがいじめられたり、ほかの子と違う服装に嫌そうだったら、そこまでしいない方がいいかもよ」と、忠告したことを覚えています。彼女は「あの子は大丈夫。そんな小さなことに動じる子どもではない」とキッパリ。確かに子どもは運動会でもマジックのインクが滲んだみんなと微妙に違う体操服を着て楽しそうに走り回っていました。なぜ、体操服を着せなかったのかと云えば、彼女たちはちょうどそのころ制服と男子の丸坊主に反対する運動をやっていたからだと思います。子どもながらにも、うちの子は「制服は何か知らないけど悪いんだ」と思っていたのでしょう。そういった意味では我が家版「偏向教育=まともな教育」を実施していたようです。
だから、学校を休ませることに何の抵抗もありませんでした。冬になると、鳥取の大山にスキーに毎年行っていたのですが、土曜日の夜に大分を出て、日曜日から火曜日までスキーを楽しんで水曜日に帰る日程でしたので、学校は休ませました。連絡帳に「スキーに行くので休みます」と、書くと、先生から「いいわね楽しんで来てね」などと書いていました。そのほかにも私はことあるごとに「今日は天気がいいから学校休んで父ちゃんと一緒に遊ぼうや」と、挑発するのですが、残念ながら私の挑発には誰も乗ってはくれずに「父ちゃんと遊んでたらバカになるから学校行くわ」と言って、ほとんど真面目に学校に行っていましたが。(つづく)
「市民電力会社をつくろう」の著書の紹介とNPOのHPへお越しください
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サムライ菊の助でござる^^
at 2012-07-20 18:10
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小坂さんの子育て記、いよいよですね!この子育て記を読んで、「学校なんか、行きたい時に行けばいい」そんなおおらかな親が増えればいいですね^^
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nonukes at 2012-07-21 00:21
ありがとうございます。どうなるかは分かりませんが、家族の同意をもらわなければ書けないこともいろいろあるのですが‥‥‥?
by nonukes
| 2012-07-20 12:28
| 反原発オヤジの子育て記
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Comments(2)