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小坂正則の個人ブログ

カテゴリ:小坂農園 薪ストーブ物語( 182 )

マイナス経済社会を楽しく生き抜く その3

マイナス経済社会を楽しく生き抜く その3
江戸時代のリサイクル社会と「環境税」
小坂正則
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「無限の経済成長などあり得ない」続き

9月の原稿では「無限の経済成長などあり得ない」というサブタイトルの割りには、キリストの父、「ヨゼフが1シリングの金貨を銀行に年利5%の複利で預けたら、現在の元利合計は地球上の金を全て集めても足りないくらいの膨大な量の金になる」という話しだけでしたので、今回はその続きを少しだけします。そして、江戸時代は、経済成長が当たり前の現代社会に比べて、どれだけまともだったかということを考えてみたいと思います。
経済成長率という言葉をテレビや新聞などでよく耳にすることがあります。何となく聞き流している言葉だと思うのですが、経済成長率とは対前年比の国内総生産(GDP)などに対する伸び率をいいます。ただ、毎年毎年、対前年比で生産量や消費が増えるということはどのような数学的な増え方になるかを考えなくてはなりません。「現在の中国が経済成長率8%を切ったので、中国の経済成長率の落ち込みが世界不況を招いた」とよくいわれます。日本も戦後著しい経済成長を遂げました。年率10%以上の時もあったのではないでしょうか。中国の年率8%の経済成長とは、銀行金利が複利で8%ずつ増えていくことと同じです。それは10年で2.16倍になり、20年で4.66倍になり、50年で47倍になり、100年で2200倍になり、200年では484万倍になるのです。こんな社会などあり得ますか。
こんな経済成長は無理だとして、アベノミクスがいう年率3%の経済成長を考えてみましょう。年率3%の経済成長は10年で1.34倍になり、20年では1.8倍です。まあ、この辺はそんなに大げさではありませんが、50年では4.38倍。100年では19倍です。200年は369倍になります。これも随分人類の歴史から考えたら大きな数字ですよね。ちなみに1000年後には7兆倍です。だから、次の世代の生活を考えたら、経済成長という考えがいかに馬鹿げているか、いえ、いかに私たちが、「地球資源の略奪を繰り広げてきたのか」が、これで分かると思います。
エネルギーの消費量についても経済成長と同じことが言えます。1800年代の産業革命以後、人類はめざましい経済成長を遂げるための原動力として、大量の化石エネルギーの消費を繰り広げてきました。1800年代に比べて現代の私たちは250倍以上のエネルギーを消費しているのです。人類100万年の歴史の中のわずか、200年でこんなに消費して行けば、これからの人類の使う化石燃料はあと200年をすれば全てがなくなってしまうのです。
ちなみに江戸時代260年の間で物価が2倍になったそうですから物価上昇率でいえば年率0.4%の伸び率にしかならないのです。再生可能な地球環境を次の子孫に残そうとするなら、江戸時代の暮らし方から何かを学ぶ必要があるのではないでしょうか。つまり現代の私たちは1日も早く「経済成長神話」という呪縛から解放されなければならないのです。
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江戸時代の庶民は実に豊かで幸せな暮らしをしていた

「江戸時代は不自由な封建社会で、坂本龍馬たち幕末の志士によって江戸幕藩体制を打倒した結果、自由な近代国家が生まれた」と私たちは社会科の授業で教わったのですが、この説に異論を唱える学者が随分増えています。近頃は江戸ブームといわれるくらいに江戸の町民文化や江戸関連の書籍などたくさん出版されています。江戸研究家の1人であり、私の反原発運動の師でもある藤田祐幸さん(元慶応大学助教授)もその1人です。私たちが思っているよりも、江戸社会は随分自由で町民文化が開花した、「とても素晴らし時代だった」と藤田さんはいうのです。確かに江戸100万都市はヨーロッパに比べて衛生的で伝染病も少なかったといわれています。例えば人間の排泄した「ウンコ」をヨーロッパのように道ばたに投げ捨てたり、下水に流したりせずに、くみ取り式の桶に貯めて「金肥」(きんぴ)という肥料として売買されていたのです。そのほかちり紙まで回収する業者がいて、キセル修理から何から何まで、ことごとくにリユースやリサイクルが行われてい循環型社会だったのです。もちろん江戸時代の何もかもがよかったとはいいませんが、町民の生活による環境負荷はとても小さな社会だったことは間違いないでしょう。だから、「現代の私たちも江戸時代の生活に帰れ」というわけではありませんが、江戸時代のいいところを見直す作業は必要ではないかと思うのです。
その理由の第1は徹底したリサイクル社会だったことです。それは工業生産能力が低くてエネルギーや原材料価格が高価だったから、労働者が労働で得る可処分所得も現代の私たちに比べて少なく、「もの」が壊れたら修繕して使うしかなかったのです。つまり、江戸時代は紙や傘など生活必需品が高価だったから紙のリサイクルや傘の張り替えや下駄の歯の交換や草履の鼻緒の交換から着物や布団のリサイクルなどが商売として成り立っていたのです。ところが1800年代の石炭を使った蒸気機関の発明で産業革命が起こり、19世紀には人類は安い石油を大量に獲得することが出来て、安価な石油原料とエネルギーを利用した技術革新によって、石油工業製品が大量に安く生産できるいようになったのです。その結果、大量生産・大量消費の「石油文明」といわれる私たちの「使い捨ての暮らし」が今日まで続いているのです。
江戸時代の特徴の2つ目に「もったいない」という庶民の生活の知恵があったのです。この考えは私の母親や祖母などまでは当たり前にあった「もの」を大切にする価値観です。その考えが、今日の私たちからすっかり消えてしまいました。だって、古くなったり、壊れたりしたら、新しく買った方が安上がりなのですから、修理して大事に「もの」を使うという価値観は現代の私たちにはほとんどありません。携帯電話などは次々に新製品が出て、それを買い換えることで経済成長が成り立っているのです。だから「今の若者はものを大切にしない」などと一方的に批判は出来ません。アイフォンなどの携帯は電池交換さえ出来ないような構造にわざとしていて、2年も経てば電池が切れてしまい、買い換えを強制されるのです。
 3つ目の江戸時代の特徴として、現代のような行きすぎた競争社会ではなかったのではないでしょうか。「結い」や「たのもし」などという互いに支え合う仕組みや徒弟制度で親方が若者を養うというセーフティーネットがあったのです。だから、江戸文化が栄えて、祭りや伝統工芸など庶民の文化が花開いたのだと思います。もちろん身分制度や人身売買による売春宿など否定されるべき社会制度もあったのですが、今よりもいい面もたくさんあったのだと思います。現代社会のいいところももちろんあります。国民皆保険制度や義務教育制度などは私たち現代日本が世界に誇る社会制度です。

「環境税」は経済成長神話の呪縛から人類を解放する第一歩

「江戸時代は21世紀の私たちが目指す再生可能な社会への手本」と、私は思っています。ではどのような手本として学べばいいのでしょうか。現代社会は石油文明といわれるように、安価な石油製品が氾濫しています。弁当箱などプラスチックが当たり前です。スギのわっぱ弁当箱を使っている人を私をほとんど見たことがありません。その理由はスギのわっぱ弁当箱は1つ1つ職人が手作りで作るため、3000円とか5000円と高いから売れないのです。しかし、石油で弁当箱を作るには公害物質を出し、廃棄するにも埋め立てれば分解するには1000年もかかり、燃やせば二酸化炭素を排出するため、スギのわっぱに比べて莫大な環境負荷の社会的コストがかかります。このような目に見えないコスト(外部不経済)を正当に商品に価格転嫁すればプラスチックの弁当箱を百円ショップで買うことなど出来なくなるのです。本来、1000円から2000円していいのです。
 このような考えの下でドイツなどヨーロッパの大半の国では「環境税」や「炭素税」が導入されました。「環境税」とは環境に負荷を与える物質を使う利用者に、その処理費相当額を課税して商品価格に転嫁する仕組みで、「炭素税」は地球温暖化の元になる二酸化炭素の排出を抑えるために二酸化炭素を出す、化石燃料に課税して化石燃料の削減をめざすものです。例えば日本の地方自治体がごみ処理費用を有料化する方法なども広い意味では「環境税」の考え方を取り入れた手法といってもいいでしょう。ゴミ袋の有料化が最近流行っていますが、ゴミ袋を1枚30円くらいにしても、処理費にはほど遠い金額ですから、私はゴミ袋は最低1枚100円から200円くらいにして、ゴミ発生者が処理コストを負担する方式にすべきだと考えます。そうすれば過剰な包装紙やトレイなどが使われなくなり、リサイクルやリユースが根付くと思うからです。生活の苦しい家庭には最低枚数を無償で配布すれば、貧富の格差による不公平感は取り除かれると思います。
 「環境税」や「消費税」や「物品税」などの間接税は、金持ちに比べて貧乏人へ大きな税負担を生むという問題を抱えているのですが、それでも私は「環境税」を1日も早く導入すべきだと考えています。
 その理由は、石油製品の価格に「環境税」という形で上乗せすれば、石油製品などの価格は上がりますので、再生可能で環境に優し製品の価格が相対的に安くなります。そうすれば、それだけ化石エネルギーの消費量が抑えられるのです。ペレットストーブという暖房器具で説明しましょう。ペレットストーブはスギや松などの針葉樹を粉にしてペレット状に固めた木質燃料を使うのですが、灯油価格が値上がりすればペレット燃料が相対的に安くなり、ペレットストーブが売れるようになります。ペレットストーブが売れれば、それに伴い、スギや松などを切り出す林業労働者の雇用が生まれて、化石燃料の消費が削減されるので二酸化炭素が増えません。また、「環境税」の導入により石油製品の価格を無理矢理に値上げして、私たちの暮らし方を使い捨ての文化から、「もの」を大切に修理して長く使うような文化やリサイクルやリユースする社会に導くことが可能になるのです。このように地球の環境破壊を助長する大量生産・大量消費社会から再生可能で、人に優しい社会を作り出そうという現代人の知恵が「環境税」や「炭素税」を考え出したのです。江戸時代のような環境負荷を最小限にする社会を実現するための方法論として、このような消費文明を抑制する仕組みを産み出したことは人類の歴史的な発見だと私は思います。また、ドイツが導入した「環境税」は、そこで生み出された税収の9割を社会保険などへの財源に充てて、1割だけを環境対策に使うという方法を取ったので財界の反対もなく、導入することが出来たそうです。
 もちろん大量生産・大量消費の使い捨て社会から私たちが抜け出すためには「環境税」の導入だけで実現できるとは思ってはいません。そのためには職人の手仕事の価値を正当に評価する「文化」や、人や「もの」を大切にする「教育」や、7世代先の人類が化石エネルギーを消費する権利を認める、地球規模の「社会的な合意」など、私は様々な努力が必要だと思います。(つづく)

「食と農おおいた」11月号 有機農業研究会 原稿 
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by nonukes | 2013-11-21 13:49 | 小坂農園 薪ストーブ物語 | Comments(0)

秋の小坂農園は農作業に忙しい

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秋の小坂農園は農作業に忙しい

快晴の秋空の元で、私は我が小坂農園の草刈りをやっています。びわの木から段々畑のハッサクと甘夏のみかんの木草刈りと農園の周辺の藪を刈って風が通り安いようにしています。ミカンの木はちょっと油断をするとクズなどのカズラがまかり付いてしまいます。
そんな丘陵地のミカン畑の草を刈って、小坂農園は見渡す限りきれいになりました。
ハッサクの実はもう随分大きくなっています。後は色づくだけです。来年の2月にはハッサクは収穫できます。おいしいハッサクや甘夏を皆さん楽しみに待ってて下さい。
現在の小坂農園の主役はレモンです。これからグリーンレモンの時期になりました。
昼間の農作業で腰や肩はガクガクですが、身体を使う肉体労働は適度な疲労感が心をスッキリさせてくれて楽しいです。
薪割りや破棄の販売などに天気のいい日はヤギと一緒に農園に出て草刈りやツル切りなどで日がな1日が過ぎていきます。頼もしい小さな助っ人も手伝ってくれて、小坂農園は今日も楽しく農作業をやってます。皆さんも体験農作業にぜひお越し下さい。
by nonukes | 2013-10-30 21:41 | 小坂農園 薪ストーブ物語 | Comments(0)

浜脇冒険ものがたり1

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私はつたないブログをここに毎日のように書いているのですが、随分前から「私の想いを書き残しておきたい」という衝動に駆られて書きはじめたものがあります。ただ何のあてもなく書いていただけだったのですが。これは別府の懐かしい狭い路地の続く浜脇の風景を書いたものです。それは母の看病に通った病院の窓から浜脇の街を眺めながら、子どもの頃よくかよった、この街の想い出を綴ったエッセイです。私は朝見川の流れる浜脇という街がとても好きです。
そこで1つの決心をしました。「そうだ、小説を書こう」と。「馬出アパートに陽はまた沈む」を現在書いています。別府も書きたいと思っています。


浜脇冒険ものがたり1小坂正則 2008年作

母が入院して七ヶ月が過ぎた。
「前日から食欲がなく、顔色もよくない」と、ホームヘルパーに言われて、私も母の顔をそっと覗いてみた。そういえば確かにちょっと顔色が悪いし、何だか元気がない。食欲もないと言うけど、熱はないから「今日のところは様子を見ることにしよう」と、私は返した。ただ、私もあまり自信がない。二ヶ月ほど前に、「どこで怪我したのか、人差し指を怪我しているから病院に連れて行って」と、ヘルパーに言われたけど、「これくらいたいしたことはない」と、私は病院に連れて行かなかった。すると、一週間ほどして、やはり傷が治らないので、結局病院がよいが続くことになった。だから、私はやはりすぐ病院に行った方がいいのかと後悔したのだ。
 「熱もないし、今日は私も仕事から帰って疲れているし、こんな遅い時間は救急病院しか開いていないのでもう少し様子を見よう」と、話した。
さて、次の日私は休みだったので、のんびり寝ていたら、ヘルパーが起こしに来た「大変だ。玄関でお母様が倒れている」と。私は慌てて玄関に走って行った。すると、ぐったりと横になっている。意識はあるがぐったりとしている。これはまずい。すぐに救急車を呼んだ。救急車で搬送される間、これからまた、私にとっても大変な入院生活が始まるのだと覚悟した。
ぐったりとしたまま病院に着いてから検査が数時間続いた。私はその間、入院の準備のための買い物や何かと気ぜわしく動き回った。 医者は「命に別状はないけど、当分入院しなければなりません」と言う。胆管が詰まって胆汁が出なくなったそうだ。内視鏡手術を行うという。
 私は一日中付き添って、それから長い入院生活が続くことになる。最初の入院先の看護婦さんや医者も丁寧な対応で、私はすっかり安心した。しかし、ある程度治療が終わると、非情な現実が襲いかかる。
 「もううちの病院での治療は終わりました。他の病院に移るか老人施設に転院してください」と言われたのだ。
 それから私と母親の「社会的入院生活」が始まった。
 「社会的入院」とは、治療を目的とする入院ではなく、病院を出ても行くところのない患者、主に老人が病院に居座ることを指す。つまり、私たちは、このような状態で特養に入るまでの「繋ぎ」目的の入院生活が始まったのだ。
 そんなわけで、私の話の前触れは終わる。私たちに紹介されたのは老人専門病院だ。東別府の中心、浜脇高等温泉のすぐ脇きにあるH病院だ。
 私は浜脇という街が好きだ。この街は戦前の赤線地帯だった。娼婦が店先の格子戸から顔を覗かせたであろう格子が、私の子どもの頃までは残っていた。残念ながら今ではほとんどそんな面影はない。ここは別府温泉が栄えた頃のいわゆる繁華街だった。
 流川界隈と浜脇界隈が別府の歓楽街だった。だから私の子どもの頃は浜脇の旅館街では春の温泉祭りにはお椀やお膳で人形を作って、それを店先に飾るという行事が繰り広げられていた。
 そんな中心街の真ん中にある病院に母は入院した。私は時間の許す限り面会に行くようにしている。ろくに話しなどないが、一人でベッドに入れられている状態は、まるで監獄に閉じ困られた囚人のように思えるからだ。出来るならここから出してやりたい。でもそれが出来ないこともまた現実だ。
今日は2月にしては暖かな1日だ。春の陽気が窓から差す木漏れ日にも感じる。外では小鳥がさえずっている。母の病室は南向きの部屋だが、窓からは鶴見山が遠くに見えるが、病室の前は狭い路地で、向かいは2階建ての古い住宅だ。いつもカーテンが閉じているので、誰も住んでいないのかもしれない。この界隈には昔のような活気はなく、人の気配があまりしない。病院の斜め向かいは酒屋だ。だが、酒屋のシャッターはいつも閉まっている。酒屋と分かるのはビールの自動販売機がまだ動いているから酒屋だと分かるくらいだ。周りの街はこの老人病院と同じくらい静まりかえっている。昔の喧噪がウソのようだ。
病院の中では無愛想な看護婦が行き来している。老人病院の老人ホームと化した病院と治療を目的とした病院とでは院内の活気が違う。ここの看護婦の仕事は飯を食べさせて排泄を世話するのが仕事といった風だ。だから病院内に活気などない。母の病室は3人部屋だが、昨日から隣のベッドの患者はいない。何でもナース室の前の病室に移ったらしい。入り口の患者は、よく聞き取れない言葉をいつも出している。「ねんちゃん。ねんちゃん」と、看護婦を呼んでいるのだ。でも、誰も来ない。
 そんな退屈な病室の母はただ、静かに動こうともせず、じっとしているだけだ。母は窓越しに外の景色を見ることはかなわない。窓側に頭が向けられているからだ。もちろん、窓側に顔を向けたとしても、ベッドからでは空しか見えないだろう。外の景色にでも興味が持てたらどんなに生活に張りが出るだろうかと思うが、それもこの年になったら無理なのかもしれない。
私は、この病院を行き来する生活を続けるに当たって、一つの決意をした。病院と浜脇の界隈を丹念に観察し、私の看病日記としようと決めたのだ。そうすれば私の看病にも励みになるかもしれないから。病院へ行く目的が一つ増えれば毎日が楽しくなりそうだ。私はそう心に決めてから、病院に行くのが楽しくなった。

病院に行くもう一つの目的

 私には浜脇の病院に母の見舞いに行くもう一つの目的がある。それは「浜脇高等温泉」に入るためだ。だって、ただ病院に行って母の汚れ物を持って帰るだけだったら何だか侘びしいではないか。だから、温泉に入って帰るのだ。この浜脇高等温泉は私のお気に入りの温泉だ。単純泉で、透明な癖のない温泉だが湯量の豊富なのが自慢の温泉なのだ。
 ここの温泉に入るついでに母を見舞うのか母を見舞ったついでに温泉に入るのか、よく分からない。それくらい温泉には必ず入って帰ることにしている。昔の高等温泉は煉瓦造りの洒落た温泉だった。残念なことに私は昔の温泉には入ったことがない。子供の頃、周辺を徘徊していたが、温泉に入ることはなかった。この街の再開発で煉瓦造りの温泉は壊され、後に高層アパートが建てられた。だから温泉の周りは変貌したが、それでも周辺はいまだに昔の面影を残している。
 私の子どもの頃は迷路のようなこの街を徘徊するのが私の楽しみの一つだった。私は浜脇から5キロほど離れた高崎山自然動物園の山の中腹に住んでいるのだが、浜脇へは子どもの頃電車でそろばん塾や習字塾に通っていた。その行き帰りに、この迷路のような街を冒険するのが日課だったのだ。もう一つは「たこ焼き」を買って食べることだった。だから、以前歩いた路地を歩いて、昔の想い出が蘇ることがある。そんなとき私は50年以上前の自分へタイムマシンに乗って帰って行くような気分になれるのだ。
懐かしいというよりもこれは冒険だ。突然50年が過ぎたが私はあの当時の私。私は鏡を見なければちっとも、あの当時と変わっていない。だから全てが万華鏡のようにぐるぐると景色が回って見える。

今日は河野そろばん塾へ行って見よう。

私は小学校の確か3年生か4年生から6年生までそろばん塾へ通っていた。別にそろばんが好きだったわけでもなければ、そろばんを習いたいと思ったわけでもない。ただ、別府へ遊びに行く口実が週に2回できるのが嬉しいからだ。何曜日かはもう忘れたが、週に2回の塾には欠かさず通った。そこで別府浜脇小学校の友達と一緒に遊んで10円のくじを引いて日が暮れるまで遊んで家に帰るのだ。浜脇の路地は、まさに迷路だった。人がやっと通れるような狭い路地を次から次と回り、冒険を楽しむ。そこには人々の汗の臭いや、洗濯物があり、赤ん坊の泣き声が路地に響いていた。また、木工細工のモーターの回る音がしていて、ケヤキのカンザシや串を丁寧に作っていた職人がいた。私はその工場の前で時間が過ぎるのも忘れて窓に顔をすりつけるように眺めていた。
 そんな工場も残念ながら今は閉まっていて、カンザシは作っていないが。
私には溝口君という友人がいた。彼は私と同い年の小学校5年生だ。彼もそろばん塾に通っているので塾に行けば彼に会える。塾が終るころ、溝口君が「コサカ今日も帰りに行こうぜ」と、隣から小さな声でささやいた。私は「いいとも」と隣の溝口君に相づちを打った。それから2人は黙々と珠算の玉をはじいては時計を見て「早く終わらないかなあ」と塾が終わる5時が来るのを待ち望んだ。
 夏の浜脇は住宅が密集しているので風が通らないから暑い。先生はいつもランニングシャツ1枚で甲高い声で「願い上げましては…」と数字を読み上げる。扇風機がせわしく首を振っている。「さあこの問題ができた者から帰っていい」と、先生の声がした。また、俺と溝口は最後まで残る羽目になるんだと、私は小さく「チェッ」と呟いた。案の情、私たちは最後の5人までに残ってしまった。それでもなんとかして玉をはじいて「ご名算」という声と共に最後の5人も「よし帰っていい」と、お許しが出た。すでに5時を15分ほど時計の針は回っていた。2人はそろばんを母親が作ってくれた布製の袋に差し込んで、塾を飛び出して一目散に例の場所へ走り出した。それはセメントで護岸が塗り固められた朝見川の川沿いに立ってる小さな小鳥屋だった。そこにお目当ての十姉妹がいたのだ。私たちは小鳥屋のオヤジに頼んで十姉妹の子の世話をさせてもらったりするのがたまらなく楽しかったのである。でも、カナリヤには触らせてはくれなかった。カナリヤは高級鳥なので私らには触らせてくれなかったのだ。私たちは「かわいいなあ。ほしいなあ」と、いいながら鳥を眺めるのが楽しかったのだ。
 そうこうしているうちに日が暮れてきた。どちらともなく「ぼちぼち帰ろうか」「うんかえろう」と、2人は満足した風に小鳥屋を後にした。溝口君は川を渡ったらすぐ路地を右に回って3本目の辻を左に行って3軒目の長屋の1階だ。僕は彼の家に遊びに行った時お父さんに会ったことがある。ちょうど夏の暑い日にお父さんがいた。お父さんは裸で団扇を仰いでいた。背中に入れ墨があった。彼のお父さんは組員だと溝口君が話してくれた。彼は実に優しい私の友人なのだが、お父さんは恐ろしそうだった。でも、お父さんは優しいと溝口君は私に話してくれた。
 ところが組がここを出なければならなくなったらしい。私が中学になった頃、別府の同じ塾に通っていた別の友人から聞いた話では、「溝口君のお父さんはヤクザの喧嘩で刺し殺されたらしい」という。「溝口君はお母さんと一緒に遠くに引っ越した」とも聞いた。私はそれ以後50年以上彼とは会っていない。

温泉祭りの松原公園は興奮の坩堝だった

さて、今日は別府一のお祭り「温泉祭り」を見に行こう。温泉祭りはお釈迦様の誕生日をお祝いするお祭りだ。4月8日を前後に5日ほどある。温泉祭りは春祭りとも言われて、別大電車は造花の桜で飾られた花電車が走るのだ。この花電車に乗り合わせたらラッキーだった。中に入れば普通の古びた電車なのだが、周りはあでやかな桜で飾られている。
 そんな花電車の通る別大電車に乗って、私は松原公園に向かって走った。なぜ走ったかというと、春の4月は我が家は忙しいのだ。びわの実に袋をかける農作業に追われて、子供の私といえども仕事をサボれないのだ。でも、今日行かなければもう温泉祭りは終わってしまう。だから私は父ちゃんに「昼から温泉祭りに行っていいやろう」と聞いたが、父ちゃんは聞こえないふりをしている。母ちゃんが「父ちゃんマサ坊があげえ楽しみにしているのやけん行かせてやればいいやないの」と言ってくれた。父ちゃんは「しょうがねえのうあげなんが何でおもしりいんか。無駄遣いするなよ」といって、私の働いた分の駄賃2百円をくれた。私は2百円を握りしめて松原公園を目指したのだ。
 日曜日の松原公園は人でごった返していた。溝口君にも会えた。私は一つ目小僧の見せ物小屋に入ろうか、それともポパイのパイプを買おうかと悩んだ。私の2百円をいかに充実したもので遊ぶか、全神経を集中させて私は悩んだ。結論が出ないので、溝口君と一緒にガムを針で切り抜いて型を作るゲームに挑戦した。一番簡単な傘の絵を切り抜くのだがこれがまた実に難しい。おじさんは手でパキパキ割って傘の絵を切り出すが、私は一度としてできたためしはない。2人とも失敗して、今度はポパイのハッカパイプを一緒に買った。だから、一つ目小僧の見せ物には入らなかった。映画館も公園の前にある。1つは成人映画だから僕らは入れない。もう一つは加山雄三の若大将シリーズとゴジラをやっている。でも今日はやめとこう。映画を見たら帰りが遅くなる。結局ぼくはくじを引いて全部外れてがっかりしながら帰ろうとした。するとおばさんが「坊やこの当たりがそんなにほしいのかい」という。私は「うん」というと、おばさんは「このくじの中には当たりは入っとらんのよ。当たりがほしかったら100円で売ってやるよ」というのだ。「そんなのインチキやンか」と私は子供ながらに抗議した。「分かった。分かった。それならもう残りも少ないから50円で売ってやるけんゆるしてな」という。私はこの50円を使えば帰りの電車賃がなくなるのにどうしようと、悩んだ。でも1等の馬のフィギアがほしくてほしくてたまらなかったから、50円を差しだして、「おばさんじゃあおくれ」といった。私はビニールでできた馬を握りしめた別大国道を一路高崎山の実家を目指して走った。手に持っていると邪魔になるのでズボンのポケットに差し込んで日がどっぷり暮れた別大国道の歩道を走った。小一時間ぐらいかけて家にたどり着いたら、ポケットにあるはずのビニール製の馬がない。どこかで落としたのだ。これから後戻って探すには日がすっかり暮れていて無理だ。翌日は月曜日で学校があるので探しには行けない。とうとう、私の温泉祭りは悲しい思い出のお祭りとなって終わった。帰ってから「何を買ったんか」と、父ちゃんに聞かれたが、私は馬の人形を買ったことも、落としたことも言わなかった。怒られるに決まっているから。こんな子供心にも辛い思い出はなぜか未だに鮮明に覚えている。

急変する母の容態

 この物語を書き出して僅か5日目に母は返らぬ人となってしまった。人の命なんて何とあっけないものか。最後に母を見舞ったのは5日ほど前だった。つまり、この物語が始まった、その日が母との最後の日となったわけだ。親不孝な息子に面倒を見てもらわなければならなかった母も不憫だが、そんなに簡単に逝ってしまわれたのでは物語が続かないではないかと、母に文句の一つもいいたい。
 だから、母の見舞いのない、浜脇界隈物語がこれからは続くことになる。母が亡くなって、慌ただしい時間が過ぎて、入院の下着や何かを全部持って帰って、「もうh病院には行かなくていいんだ」と、思ったら、何だか無性に寂しくなった。私が子供の頃、自由に楽しく浜脇界隈を俳諧して回れたのは、家に帰れば「母の暖かな夕ご飯が待っている」という確信があったからだった。私のこの物語も、そんな思い出の「暖かな夕ご飯」はもうないが、浜脇に母が居るという確信のような心のよりどころがあったから、母が待っているような気がしたので自由に徘徊して回れたのかもしれない。だから、私はこれからは1人で寂しく帰る家の当てもない浮浪者のような元気のない、うつむいた目で浜脇を徘徊するのかもしれない。

くにちゃんとの淡い思い出

私には片思いの子がいた。彼女も私が塾に通うようになってから、すぐに同じ塾に通うようになった。でも、彼女は利口でかわいくて人気者だった。彼女は私よりも後から入ったのに、すぐに私を追い越して上の級に進級した。だから僕らの授業が終わった後に彼女は来る。僕とは入れ違いだ。「小坂君まだ進級でできんの。今度の試験は頑張ってね」と、お姉さん面して私に声を掛けた。私は「ほっといてくれ。俺が塾に来る目的は浜脇を探検するために来てるんじゃ。男は珠算なんかできんでもいいんじゃ」と空元気をだして反論した。でも、ちょっと恥かしかった。しかし、俺には溝口君という友達がいるからいいんだ。彼を差し置いて進級などできない。男の友情の方が女の子よりも大事なんだ。
珠算塾経営者も塾生の確保に様々な苦労をしている。僕らをトキハデパートに連れて行って食事をおごってくれることが年に一度は必ずある。その時は学校ごとに行くので、彼女と一緒になれる。別に何を話すわけでもないが、何となく一緒にいるだけで嬉しい。面白いもので同じ学校だからいつも会っているのに、何か特別の行事に一緒にいるということに感動があるのだ。そんなかわいい彼女との一方的な思い出も、何もなく終わってしまった。それでも若い私は夢の中で彼女には無断で、何度となく彼女におい出いただいたことか。

東別府駅前の産婆さん

 私を産み取った産婆さんが東別府に一人で住んでいた。私が子供の頃から随分お年を召していた。でも、私を見ると、「小坂のお坊ちゃんか。元気にしてなさるか」と、いつも優しく頭を撫でてくれた。東別府駅前の道路と国道に挟まれた長屋の2階に産婆さんの部屋はあった。もう、私が塾に通う頃には産婆をやめていて、一人で慎ましく暮らしていた。背中は曲がっているが、しっかりしたおばあさんだった。珠算塾ではほとんど会わなかったが、書道塾がこのおばあさんの長屋のすぐ真向かいだったのでよくみかけたものだ。彼女は静かにベンチに座って道路を行き交う車を眺めながら日向ぼっこをしていた。私も他人のようにも思えなくて、「こんいちは」と声を掛けながら、優しいおばあさんの曲がった背中を静かに見つめていた。
 いつ頃かあらおのおばあさんを見なくなったのだろか。この町には私の思い出が一杯詰まっているのだ。

流川松屋旅館の思い出

 私が浜脇から流川界隈を徘徊する理由がもう一つある。私の親類にたまたま旅館経営者がいた。流川松屋旅館とイヨヤ旅館、観海寺温泉には杉の井もあったらしい。今は杉の井ホテルだが、戦前は杉の井旅館だった。そのころの旅館経営者が身内だった。そんな、旅館の後を見て回り、当時を思い出すのが私にしかできない最高の楽しみだからである。松屋旅館のおばちゃんにここでお菓子を買ってもらったことや、イヨヤ旅館の4階から眺めた北浜港の関西汽船の思い出や旅館の大きな中庭の思い出などなど。でも今見るとこんなに小さな敷地だったのかと驚いてしまうが、当時はもっと大きく見えたものだ。
 今はヒットパレードというキャバレーに変わっている場所が旧松屋旅館だった。すぐ前には竹川原温泉がある。あの路地の石畳にはには女給さんの涙や若旦那との激し愛や別れなど様々な女たちの思い出が雨と一緒に流されたことだろう。だからかどうかは知らないが流川の裏通りはいつもしっとりと濡れているようだ。
別府の街は栄華を極めた当時の様々な思い出と共に小さかった私の心にもかすかながら、当時の「女」たちの悲しい出来事を見聞きした。私には何事かも分からなかったが、様々な別れがあったのだろう。旅館の廃業や裏切り、栄華を極めただけに、宴の後の人々の憎しみや対立などなど、路地の浦々にその生き様が刻まれているようでならない。小さななお地蔵様が赤いよだれかけをして立っている。今でもこの町はいろんな人々の思いと一緒に息づいているのだ。浜脇・流川の裏通りは何て魅力的な街なんだろうと思わずにはいられない。

新京楼

 私の自宅の説明もしておこう。私の両親は戦後この地に越してきた。ここは杉の井旅館の経営者が所有していた農園だった。終戦後、農地解放で全て小作人に取られないようにと、親類の地主が両親を送り込んだという経緯がある。ところで、今の私の家はとても古い家だ。明治か大正時代に建てられた遊郭の別荘だったらしい。田舎では屋号で人を呼ぶが、私はよく、「新京楼の小坂さんか」と、村の人に呼ばれていた。新京楼とは別府にあった遊郭の名前で、そこの別荘だったのだという。だから家の造りもちょっと変わっている。旅館のように回り廊下があったり、丸窓があったり、灯籠があったり、農家の屋敷にはどうしても見えない。こんな山奥にお忍びのお客様が来ていたのだろうか。何だかこの地でも様々な遊女の念が渦巻いているのかもしれない。
 私がこんな物語を書くきっかけになったのも、誰かの情念の力によって私に書かせているのかもしれない。そんな不思議な気配を感じながら私は、この物語の続きを書こうと思う。
中庭の池に溺れる

 私の家は農家にしては部屋数が10以上あある大きな家だった。母屋には幅が2メートル以上ある廊下が走り、別棟に続く。そして向かい合った回り廊下沿いにそれぞれの部屋がたたずんでいた。戦後はここにせんべいを焼いて、それを高崎山の観光客に売って生計を立てていた夫婦が住んでいた。もう一家族は戦前から住んでいた母子で、同じく高崎山で観光客相手の土産物屋をやっていた。そこに我が家族が入って来たのだという。そして、母は大分大学生相手の下宿屋もやっていた。だから母も父もたいそう働き者だった。私の父は高崎山の木を無断で切り出してはリヤカーに積んで別府の旅館に売りに行った。その帰りに、今度は旅館の金肥をもらって帰っては畑の肥料にしていたという。このような連なった部屋に様々な家族が暮らしていたのだ。
そんな我が家に5歳ころの私は大学生の部屋に行って彼らと一緒に遊ぶのが一番の楽しみだった。そんなある日のこと、私は親父の丹前を羽織って、引きづりながら大学生の奥田さんの部屋に遊びに行こうと周り廊下を駆けていった。すると小さな廊下の端に丹前の裾が引っかかって、私はそのまま庭の方へと転げ落ちてしまったのだ。すると運悪くそこはひょうたん池の真ん中で、私は頭から池に飛び込んでしまったのだ。その時の恐怖はいまだに脳裏に焼き付いている。私は目の前が真っ暗になり、おまけに頭から池に飛び込んだのだから息も出来ないで、ただもがいていたのだろう。そこに部屋にいた奥田さんが急変に気づいてくれて、ずぶ濡れの私を池から引きずり上げてくれたのだ。だから奥田さんは私のいのちの恩人なんだ。

朝見川に流した涙

私には妻や家族がいた。母が逝ってしまった今は、そのほとんど全てをなくしてしまった。夫婦の愛情や家族の絆というものは壊れるときは一気に崩壊するものだ。夫婦はもともと赤の他人がたまたま一緒に生活をするようになり、その結果子供ができたぐらいのことだから壊れかかったら面白いほど崩壊のスピードは早い。次の彼女ともよく喧嘩した。私は喧嘩した後は、洗面器に石けんとタオルを入れて浜脇高等温泉によく行ったものだ。
そして、風呂上がりの火照った身体を冷やすように朝見川沿いの道を上流までよく歩いた。その道沿いには洗濯物の洗剤の臭いや温泉に混じった石けんの臭いなど様々な生活の臭いが私に押し寄せてくる。薄汚れた川面には鯉が泳いでいたり、ボラの稚魚が群れていたりする。寂しい私には何の関係もなく、時は動いている。私は、彼女にどう謝ろうかと考え、歩きながら、ふと川面に目を落とした。すると、赤いタオルのようなものが下流に向かって流れて行くのを見た。あれは私の一番大切な彼女への愛情。もしくは私の涙が一杯入った涙袋だったのではないかと、ふと私は思った。 
 私は浜脇の街を流れるこの朝見川の両岸を歩きながら、その両脇にたたずむ家々の生活の臭いを嗅ぎながら散歩するのがたまらなく好きだ。
by nonukes | 2013-10-21 18:31 | 小坂農園 薪ストーブ物語 | Comments(0)

特定秘密保護法もTPPも原発再稼動も憲法改正も1本の糸でつながっている

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特定秘密保護法もTPPも原発再稼動も憲法改正も1本の糸でつながっている
小坂正則

私はこの秋も暇で、薪の注文は少しずつ入って来ているが、それも3日に1回くらいの頻度だから、そんなに忙しくはない。だから毎日1冊から2冊の本を読んでいる。最近読んだ本の中で特に感動した本に孫崎亨さんの「アメリカに潰された政治家たち」という本のことは、ちょうど1月前の9月10日のブログに書いた。日本政府がアメリカの占領国であり、日本の政治家はCIAに睨まれたら政治生命をなくしてしまうと。
特定秘密保護法案は米軍の軍事機密を保護するために米軍が要求したものだと言われている。この法律の一番の問題は、「私たち国民は何が秘密であるかが分からないまま罰せられる」と言うことだ。せめて秘密の中身ではなくてもタイトルぐらいは教えてもらえれば「この中身を知ったら罰せられるから近寄らないようにしよう」と、危険を予知できるのだが、「秘密であることが秘密」なんだから。

特定秘密保護法案の怖さ

私はこんな夢をみた。私は小さな居酒屋をやっている。自衛官が2人で、私の店に入ってきた。2人はしこたま酒を飲んで随分酔っぱらって帰って行った。ところが2人の内のどちらかは知らないが、1人が黒い鞄を忘れて帰った。私はお客さんの名前と住所が鞄の中に書いていないかと思って、鞄の中を開けてみたら、随分分厚い資料が入っていて、戦闘機の図面や戦車の図面などが入って入るが名前などはなかった。そして、その資料のファイルの上にはマル秘という赤い文字が書いてあったのだ。翌日私の家に自衛隊諜報部隊のいかめしい男が3人でやって来て、私にこういった。「お前はこの中身を見たな」と。私は「中身は見ましたが持ち主の住所か名前が分からないかと思って見ただけです」と答えたが、そのいかめしい男たちは「お前は国家機密を見たので逮捕する」と言って、突然私の両肩を押さえて、手錠をかけようとしたのだ。私は何が何だかわからないまま「私は何も悪いことはしてませんよ。私はこの中身が国家機密だなんて知らなかったのですから」と訴えたが3人は、私の訴えにはまったく聞く耳は持っていないように黙って自衛隊のジープに私を引きづり込んで私の知らない所へ連れて行こうとしている。
 だから国民は何が秘密かも分からないまま秘密があるという恐怖しか持ち得ないで暮らさなければならないのだ。これは戦前の治安維持法下の特高警察の取り調べと同じじゃないか。

テロ防止の目的で原発関連情報は国家機密となる

10月7日のNHKドキュメントで「原発テロ」という番組があった。アメリカは核燃料の輸送や備蓄などはテロ対策のために一切が国家機密だという。特に核燃料の輸送などもいつどこからどこまで輸送するかなども一切秘密だ。それに対して日本は「原子力の平和利用」のもとで公開が原則だから情報は公開されている。このような日本の対応にアメリカは非常に不満であるとNHKは伝えていた。自民党菅官房長官はマスコミの「原発関係の情報は国家機密になるのではないか」という質問に対して「そんなことはありませんよ」と答えていたが、法案が通ったら、何が機密で何が機密でないかは、実際に運用する官僚のさじ加減で決まってしまうので、自分たちに都合に悪い情報はどんどん機密となってしまうのだ。戦前の治安維持法も運用でどんどん拡大解釈していき、最後には国民を破滅に追いやる法律となってしまったのだ。


=アーサー・ビナードさんはペテンを見抜く力をつけよという

今日、私はアーサー・ビナードさんが6日の日曜日に豊田市で行った講演会のビデオを見た。テーマは「戦争はほんとうに終わったの?」という話しですが、「日本はアメリカに今でも進駐軍に占領されているんだ」と言います。そして「日本が米国の真珠湾を攻撃したことでアメリカが太平洋戦争に突入したことになっているけど、あれはアメリカが全ての日本の暗号を解き明かしていて、わざと日本に攻撃させたのだ」と。「真珠湾にはガラクタの戦艦だけを置いていて空母などは全て避難させていた」とか。「太平洋戦争はパールハーバーからミッドウエイ開戦まで、決着はつていたのになぜ2年も米国は戦争を長引かせたかというと長崎に落としたプルトニウム型の原爆が完成しなかったからだ」と。「広島長崎の原爆投下で太平洋戦争は終わったと米国政府は米国民に言っているがあれは真っ赤なウソで米軍は広島・長崎に核兵器を落としたかったから戦争を終わらせなかったのだ」と。また、「TPPも米国が日本を完全に支配するための不平等条約であれは農産物の関税問題などではない。農産物の貿易額などはほんの微々たる額で、一番の目的は保険や金融商品、医療自由化などの金融・経済支配が目的だ」と。「アメリカを中心とした実態のない経済を支配しているペテン師の連中が実体経済や世界中の市民をこれから100年もの長い間、安定して支配するために仕組んだ罠だと。私たちが平和に暮らしたいのなら、このようなペテン師の企みを見抜く力を持つことだ。だからまだ間に合う。TPPも国家機密法も法案が通るまで、出来る限りの声を上げて抵抗をしよう」と。
そして彼は「軍隊を派兵させない日本国憲法は世界一素晴らしい憲法だ」と。「こんな素晴らしい憲法を守らなければ。この憲法は日本の宝だ」とも。
ビナードさんは私たちに次のようなことを言いたいのではないだろうか。「日米のペテン師に騙されるな!アメリカ人や白人には劣等感を持って、中国人や朝鮮人には優越感に慕っている日本よ!」と。私たちの頭に冷水を浴びせかけてくれるような彼の話しだった。
日本のいかさま師とアメリカのペテン師が互いの民族を対立させて戦争が出来るような状態を作ることで原子力産業や軍需産業などを儲けさせようとしているのだ。私たちは誰も韓国や中国と戦争などしたくはない。
アーサービナードさんのお話し
by nonukes | 2013-10-10 01:07 | 小坂農園 薪ストーブ物語 | Comments(1)

神田古本屋街を徘徊して見つけた1冊の写真集「アンドレ・ケルテス」

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神田古本屋街を徘徊して見つけた1冊の写真集
小坂正則

私は東京に行くたびに寄る所がある。それは神田古本屋街だ。昨年も7月の終わりに行ったついでに古本屋街で写真集をたくさん買い求めた。
今回の東京行きも写真集などでいいのがあれば買って帰ろうと思って、フラフラと寄ってみた。そこで毎年行くたびに驚くことがある。何だか神田古本屋街が行くたびに見つからなくなってくるのだ。確か中央線水道橋駅から降りて靖国通りまで下がったら、両方の通りに古本屋が軒を連ねていたように思うのだが、行くたびに古本屋が減っているような気がするのだ。
今回は時間が余りなかったので、2、3軒しか覗かなかった。その中で、美術専門店に入ったら、マグリットやダリの洋書が並んでいた。洋書でも作品を見るのは英語やフランス語がほとんど理解できなくても、そんなに苦にはならないが、専門書は別だ。そして、写真集の棚を眺めていたら、アンドレ・ケルテス写真集が目に止まった。岩波書店1986年出版の写真集だ。「岩波が写真集を出すなんて珍しいじゃないかなあ」と思いながらペラペラとページをめくって見ていたら、やはりほしくなった。定価は18000円で売値は6500円だ。安い。「程度も実にいいし、この写真集を買わずには帰れない」と思ってしまった。
私が学生のころ指導教官が確か見せてくれた写真がケルテスだ。私はエドワード・ウエストンやエドワード・スタイケンなどのアメリカの近代写真家やケルテスのようなフランス写真家の作品が好きなのだ。もちろん現代の写真家の代表である土門拳を初めとして藤原新也氏や細江英公氏なども好きなのだが。そうそう、エロティシズムぷんぷんの荒木経推の濡れたようなエロさも耐えられないほど好きだが。いやらしさは不純で非芸術的だという偏見は古い。アラキーのラジカルな女性の表現は素直にいいと思う。
話しはケルテスなのだ。ケルテスがなぜいいかというと、それは1920年代の記録写真から芸術的な表現へと写真の世界を開花させた彼の功績は大きい。今見ても彼の写真は新鮮で胸がときめく作品が多い。そんなどっしりと重い写真集を引っさげて大分に帰ってきた。もう一つだけ買った作品は細江英公氏の人間写真集「死の灰」という写真集だ。
私がもし、写真家だったら、福島を撮らなければならないという衝動に駆られるだろうと思った。幸か不幸か、私は写真家ではない。
時代を切り取った表現しか現代人の心を打つことは出来ないと思うからだが。昨日NHK日曜美術館で石田徹也氏の作品をやっていた。彼の作品も現代社会の苦悩の中でしか表現できないだろうと思った。彼は自分の作品を作ることでますます追い込まれていってやがて死を選択するしかなかったのだろうと思った。見れば見るほど重く苦しいが心にひっかかる作家だ。数年前私はNHKで見て、すぐに作品集を買った。いま全国で遺作展を開催しているという。九州に来たらぜひ実物を観たいと思った。
by nonukes | 2013-10-07 18:06 | 小坂農園 薪ストーブ物語 | Comments(0)

仲間意識の熱さの違いに悩む私はおかしい?

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仲間意識の熱さの違いに悩む私はおかしい?
小坂正則

私は先月の28日、29日の2日に東京で開催された緑の党の総会に昨年の結成総会に次いで2回目の会議に参加しました。そこでは、久しぶりに会った多くの知り合いがいました。私は厳しい闘いだった参院選は負けるし、これからの再建の道は険しくてどのようにすれば緑の党が大きくなれるのかという課題に対しても、なかなか回答は見いだせないだろうと思うし、これからも今まで以上に茨の道が続くことを想像すれば、この総会は厳しい総会になるだろうことを察していました。しかし、だからこそ、同じ価値観を持った仲間と会うことがうれしくて、熱いものを感じながら総会に参加したのです。
しかし、久しぶりに会った方々は、私の熱い思いで挨拶する言葉に対して、醒めた目つきで、何の感動もないように事務的な挨拶を皆さん返してきました。
私は「アレッ何か変だなあ」と思いました。感動している私だけが1人浮き上がっているのがバカらしく見えたからです。「何で皆さんはそんなに醒めているのだろう」と私は、彼らの気持ちを理解できなかったのです。私は見ず知らずの方々にも「皆さんはじめまして。参院選は残念ですが、これに懲りずに頑張りましょうね」と言って握手をして回りたいくらいに、仲間に会えるのがうれしかったのに…。だって、200人以上の仲間が一同に会しているのですから。
しかし、そんなにうれしい人だけではないんだなと改めて思い直しました。私事ですが、電力会社のロビーに座り込んだり、道路に座り込んで機動隊と対峙する場面などの時に、隣に座っている見ず知らずの人に対して、私は同志的な連帯感を感じて、何の違和感もなく仲間意識が芽生えることがありました。それはごく自然な感情であって、それが何かおかしなことなんかではないのです。私が山手線に乗って、隣に座った女性に親しく話しかけるなどということは決してしありませんが、隣にいる方と同じ思いで時間と空間を共有しているということだけで、うれしくなるではないでしょうか。だって、そのことが「私は生きている」という実感を感じることが出来る瞬間だからです。「何で私の周りの方々はそんな時空を感じないのだろう」と私はどうしても理解できなかったです。
確かに私は喜怒哀楽が人よりも大きいのかもしれないし、躁と鬱の時の幅が大きいのかもしれない。整理整頓が出来ない性格や、注意散漫な性格などから発達障害なのではないかと考えたりすることもあります。私は総会の第1日目の夜の交流会に参加したのですが、この交流会が大の苦手なのです。立食パーティーなどでは孤立してしまって、自然に見知らぬ人と交流できません。交流していても話題が途切れたり、私と話している相手が気まずい思いをしているのではないかと悩むことがあります。なかなか周りの人のように気楽に楽しそうに交流ができません。だから最初の30分くらいの時間を持てあましていました。そして何とか交流会が終わって、私はホッとしました。
こんなことで悩む人はいないのだろうかと思ったりします。こんなことを悩むのは私だけなのだでしょうか。親しそうに会話してパーティーを楽しんでいる人を見ると、私はうらやましい。

皆さんそれぞれに小さな障害や人と違う個性を持っているんだ

私のブログにいつかこんなコメントがありました。「私の付き合っている彼氏は警察官ですがアスペルガー障害を持っています。どのように付き合えばいいのでしょうか」という秘密のコメントが書き込まれていました。私は何と答えたらいいのか見当もつかないので回答はできませんでした。だって、私の助言が彼女の人生を左右することになったら私は責任を負えないからです。私が何らかの助言をするならば2つの助言しかありません。「別れた方がいいのではないですか」と「あなたが頑張って彼を支えてやることがあなたの幸せになるのではないですか」という相反する2つの助言です。ただ、あなたの人生に誰も責任を持てないことだけは確かなことです。最後はあなたが決めるしかないのです。
私には私の個性や障害があって、それぞれ皆さんには1人1人、弱さや人には見せたくない寂しさなどがあり、それを皆さん胸の中にしまい込んで生きているのです。だから、そんな弱い自分をさらけ出して生きていくことが、実は生きづらいこの世の中を生きて行く秘訣なのではないかと思います。だから少しくらい人と違っていても何てことはないのです。心配する必要もないのです。でも、相手のことを気遣って心配することは、それは私の優しさなんだと私は思うようにしています。
だから私が熱い気持ちで接した方々に対して、私が悪いのでもなければ、相手の方が悪いのでもない。それぞれの違いを認め合って生きていくことが多様性の尊重なのだと私は思うことにしたのです。ところでアスペルガーの彼氏のいる女性は、その後どうしたのだろうか。
by nonukes | 2013-10-07 15:33 | 小坂農園 薪ストーブ物語 | Comments(0)

今は亡き痴呆の母に教えてもらった「私の幸せ」

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今は亡き痴呆の母に教えてもらった「私の幸せ」
小坂正則

私はほとんど仕事らしいことはしていないが、人間何もしないわけにはいかないようで、何んらかの暇つぶしでもしないことには時間が経たない。まあ、暇で死んだという話しは聞いたことがないから、「暇すぎて死にそうだ」というのはきっとウソだろうが。そんなことを言うと「おまえはなんと贅沢な悩みなんだ」と怒られそうだが。
私とて仕事をしたくないわけではない。汗を流せば頭脳は明晰になり、生きてるという実感が持てるし、何よりも酒も飯もうまいし、時間があっという間に過ぎていて精神的には実に心地よい。だから、仕事があればいくらでも応じる気はあるのだが、仕事がないだけだなのだ。一応、薪の販売やペレットストーブの設置などを注文があれば行うのだが、このような品物はおいそれと売れるようなものではないから、営業に行くといっても行く当てがない。だから、こうしてじっと部屋にこもって毎日書物を読みながら、注文が来るのをただただ待っているのだ。それでも私は何らかの社会的な貢献や、社会的な意義ある行動をしたいと思う。それが生きている証だからかどうだかはよくは分からない。無意識にそんな風に思うのだ。

痴呆の母が教えてくれた「人のために生きることの大切さ」

私の叔母が特養のホームに入っていて、上げ膳据え膳で何の心配もなく生活しているのだが、私には「何の不自由もない暮らしほど自由のないものはない」と思ってしまうのだ。私の痴呆の母が生きていた頃、家で私と一緒に暮らしていて、ホームヘルパーが介護に来てくれていた。母は洗濯物をたたむ仕事など、しなくてもいいけど、させていたし、自分からしていた。それが彼女の生き甲斐の創出だったからだ。「人間は何もしなくていい」といわれるのは「早く死ね」といわれるのと同じなんだ。他者が私を必要とすると思うことが、生きることの励みになり生きなければならないという確証を自分に与えるのだろう。私には子どもがいるが、出来の悪い子ほどかわいい。私に迷惑をかける子ほど、「いい加減にしろよ」と怒りながら、私は笑っている。
そんな母が死ぬ1年半前のこと、母が入院してベッドに縛られるように寝かされてしまっては、ただ生きる屍のごとく目はうつろで生気が失われて行った。私は母が入院してからは出来るだけ面会に行っていたのだが、話すことなど何もないので、ただ黙ってパイプ椅子に座って沈黙の時間が過ぎていた。小1時間もしたら、「もうそろそろ帰ろうかな」と言うと、母は「もう帰るのか」と寂しそうに言い、「まだ帰らなくてもいいじゃないか」と目で訴えていた。そんな生活が1年半くらい続いたが、その後、枯れるように息を引き取ってしまった。私は夜遅くなったときなど、「また病院に行かなければならない」とか、忙しいときは「今日は行くのをやめよう」と、何度も思ったことか。そして実際に行かなかったことも何度もある。「早く死ねばいい」と、思ったことはさすがにないが、めんどくさいという思いは心のどこかにあったことだけは間違いないだろう。
それが突然病院に行かなくて良くなった。母が亡くなって、1週間は葬式やお寺への挨拶や職場への挨拶などであっという間に時間が過ぎたが、1週間の休んだあとに職場に出て、仕事が終わって自宅に向かう車のハンドルを握っていて、国道10号線を大分から別府に向かっていたら、いつものように無意識に別府の病院に向かう私が居た。私の家がある高崎山の信号を曲がる直前に、「今日は病院に行かなくてもいいんだ」ということが頭に浮かんで、急に左折したのだが、そのまま直進して別府の病院に行きそうになった。
そしたら何だか涙が出そうになってしまった。「もう別府の病院には行かなくてもいいんだ」と。「私は母に生かされていた」ということが初めて分かったのだ。「私が居なければ痴呆の母は1人では生きていけない」だから、「私は母を守るためにしっかりしなければならない。痴呆の母を持った子の宿命だ」と、母を恨んでいたのかもしれない。「母がもっとしっかりしていたら、いろんなところに連れて行ってあげられたのに。何で痴呆になったのか」と恨んだことさえもあった。しかし、私は母を守らなければならないという責任感が私の生きる支えとなっていたのだということが、母が死んで初めて分かったのだ。「母を支えて生きなければ」と思っていたことが、実は「母に支えられて私は生きていたのだ」ということを。人が私を頼りにしているということは、私はあなたに生かされているということなんだと。

「人のためは自分のため」

「人は人のために生きている」とは誰が言った言葉かは忘れたが、私は死んだ母や親父のために生きていくことはもうないのだから、誰かほかの人もために生きていこうと考えた。それは家族でなくてもいいのだ。私はシリアの内戦で逃げ惑う子どもたちや、母親たち、何の罪もない人びとが政治や戦争の犠牲になって逃げ惑う人々。見たこともないそんな人びとのために、ほんの小さな手助けでもすることができたら私はきっと幸せになれるだろう。そのことで、私も生きているという実感を持たせてもらおうと思ったのだ。それはシリアでなくてもいい。福島から逃げ出したくても様々な事情で逃げ出せない母子でもいい。誰のためでもいい。人のために役にたたさせてもらうことが結局は私が生きていることの実感となるのだから、こんなありがたいことはない。「人のためは自分のため」という私の幸せを痴呆の母に私は教えられたのだ。
そんな母は本当に善人だった。私たち子どものために一生懸命に生きて、父に最後まで尽くした。そして、他人のためにも精一杯に世話を尽くして死んでいった。しかし、それが結局は彼女の幸せだったのだろう。もっと私は母へ生前に親孝行をしておけば良かったが、死んでしまってはもうどうしようもない。人のために生きるという幸せの実感を、私は大いに味わせていただこうと思っている。


母の葬儀の挨拶   2009/02/13

本日はお忙し中、亡き母、小坂 マツ子の通夜にご弔問いただきまして、誠にありがとうございました。生前母とお付き合いしていただいた方やお世話になった大勢の皆様にご弔問頂いて故人もさぞかし感謝している事と思います。

さて、母は1年半前から入院をしていましたが、昨日急に様態が悪化し、12日の10時30分に帰らぬ人となってしましました。当年89歳でした。
 母は10年ほど前から認知症の症状が表れ、自宅でホームヘルパーさんの介護を受けながら父と2人で暮らしておりました。4年前に親父が先立ちまして、その後は私と二人で暮らしておりました。その間、ヘルパーさんや○○病院の皆さんなど大勢の方のお世話になりましたことを、改めてお礼申し上げます。

世間では、戦後はとっくに終わったような風潮で、戦争の苦しみは忘れ去れれていますが、私の母にとっては戦争はまだ終わっていません。
母は20歳そこそこで満州の開拓団の農業指導員として働いていた父と写真による見合いにより父に嫁いできました。
戦争が激しくなって、父は戦争に行ってしまい、昭和21年8月15日から、母は3歳の長男と1歳の次男を抱えて、開拓団に残された年老いた男性と女性や子どもたちの集団は中国大陸をそれこそさまよいながら、日本をめざしたそうです。その苦労は言葉には言い表せないほどのものだったと思います。日本へ帰国する間に多くの方が餓えや病気で亡くなり、女性や子どもたちの多くは中国に残り、中国残留日本人や孤児となったそうです。母は最後まで2人の子どもを抱えて帰ろうとしましたが、途中で栄養失調や病気で二人とも亡くしてしまいました。中国残留孤児のニュースに、母は我が子が帰ってくるかのように食い入るようにテレビの画面を見入っていました。
昨日、母と一緒に満州から引き上げてこられた方に弔辞を読んでいただきたいと思いまして多くの方に連絡を取ったのですが、皆さんお亡くなりになったかご高齢で葬儀にも出ることが不可能な方ばかりでした。このようにして母たちの歴史はロウソクの火が1本1本消えるように、戦争の苦しみや悲しい想い出が消えていくのかと思います。
母は戦後、満州から着の身着のままで引き上げて来まして、親父と現在の地で、私たち子どもを育てるために、それこそ一生懸命に夜遅くまで働きどうしでした。歳を取ってやっとこれから楽になるという時期に認知症と足腰を悪くして、自宅に籠もったままでした。母は何の趣味もなく、旅行にもほとんど行くこともない日々を過ごして来ました。
母は人一倍優しい人でした。私たち子どもや周りの方々へも暖かい思いやりに満ちた母でした。母の優しさをいつまでも忘れることのないように、残された私たちはこれからも精一杯、生きて行きたいと思っております。
私は満足な親孝行も出来ないまま、母を見送ることになってしまいました。
今となっては、あれもしてやればよかった、これもしてやればよかったと悔やまれますが、苦しむこともなく、安らかな美しい顔で眠るように息を引き取ったとことがせめてもの救いかと思います。
これからは、あの世で、親父や満州で幼くして亡くした息子たちや母親の両親などと再会して楽しく安らかに過ごしてくれることだけを願っております。
by nonukes | 2013-09-25 22:24 | 小坂農園 薪ストーブ物語 | Comments(0)

マイナス経済社会を楽しく生き抜くその2「無限の経済成長などあり得ない」

マイナス経済社会を楽しく生き抜くその2
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無限の経済成長などあり得ない小坂正則

 私たちの国の負債は1000兆円を越えて、毎年50兆円以上の赤字国債を発行し続けているそうです。その借金はいずれ私たちか次の世代の子どもたちが返さなければなりません。しかし、政府が返さなくていい方法は1つだけあります。急激なハイパーインフレにして貨幣価値が1/10から1/100になった第二次世界大戦後の日本やドイツはお金が紙切れ同然になったので実質的にほとんど返す必要がなくなりました。しかしそれは国民の預貯金が紙切れ同然になるのですから、結局は国民に膨大なツケが回って来るのです。日本政府が国家破綻状態になれば1000兆円が100兆円にも10兆円にもなるので実質的にはほとんど返す必要がなくなりますが、そうなると国内の企業は軒並み倒産し、街は失業者で溢れ世界恐慌に陥ることになるでしょう。現在ギリシャやスペインが債務超過に陥ってEUの厳しい管理下で財政再建を行っていますが、ギリシャでさえ、GDP比158%の債務に対して、日本は238%の債務(借金)を抱えているのです。それでも日本の国債が値崩れしないのは、赤字国債以上の預貯金を日本人が持っているからだと言われています。しかし、自民党安倍政権はブレーキの壊れた暴走車が坂道を転がり落ちるかのように赤字国債を垂れ流し続けていて大丈夫なのでしょうか。

少子高齢化社会で、ものはますます売れない

安倍首相がどのように経済成長をさせようとしても、急激な人口減少が訪れた日本では、このまま右肩上がりの経済成長を続けることは不可能です。不況になればリストラや、それに伴う社会不安や所得格差がますます拡大するでしょう。今日の不況の原因の1つには、私たち消費者がそんなに「もの」を消費しなくなったからだとも言われています。つまりは非正規雇用の若者は買いたくても「もの」は買えないし、少しくらいの収入が増えたとしても、いつ会社を首になるか分からないので消費は控えます。また、子どもや若者がどんどん減って、購買意欲の大きな層が減った結果、ものが売れなくなったのです。おまけに高齢者はお金があっても、後先短い人生にそんなにほしいものなどありませんし、高齢者は年金の減額や医療費の負担増などから出来るけお金は使わずに貯蓄に回します。だから日本経済は今後ますます消費が減っていくしかありません。安倍首相がいくら頑張ったところで、このような先進国に共通したデフレスパイラル現象から抜け出す方法などは簡単には見つけられないでしょう。だって、人口減少に歯止めがかけられなければ根本的にデフレスパイラルからは抜け出せないからです。

つまり「経済とは消費だ」ということが分かっていただけたかと思います。うまくみんなが消費してはじめて経済がうまく回るのです。しかし、強引に消費を作り出す方法があります。それは戦争です。戦争は莫大な消費だと言われています。戦後、アメリカは朝鮮戦争とベトナム戦争を行いましたが、それによりアメリカ国内はもとより世界中が好景気に沸きました。特に日本は朝鮮戦争で戦後復興の足がかりを掴み、ベトナム戦争で高度経済成長を遂げたのです。 アメリカはベトナム戦争で使った赤字国債が返せなくて、1971年にニクソン大統領は米国ドルの兌換紙幣制度(ドルを金とを交換する制度)を一方的に破棄して、今日の変動相場制市場になりました。いわゆるニクソンショックというやつです。その後、1973年の第四次中東戦争で石油の供給が不足して第一次オイルショックが起こり、日本の高度成長もこの辺で終わったようです。アメリカはその後もアフガニスタンからイラクへと戦争を常に繰り返し行いました。なぜアメリカは戦争をするのか。その理由の1つは軍需産業を儲けさせるためには戦争をして莫大な消費をしなければ軍需産業が儲からないからです。もちろんアメリカは常に自分のいいなりにならない国を武力で脅して、世界を我が物顔で支配したいからですが。
戦争をしなければ経済成長しない世界なんて異常です。戦争で大量の爆撃を受けるのは女性や子どもなど罪のない一般市民だからです。人類とは無限の経済成長という幻想のために戦争を繰り返す麻薬中毒患者のように私は思えてなりません。
だから、「経済は消費」だといっても、無法者が他人の家に押し入って、ものを破壊したり強奪したりするような戦争経済は長続きはしません。私たちの「幸せな暮らし」を維持するためには平和な社会は必数条件なのは当然です。

不労所得は人の道義に反する

ドイツの童話作家ミヒャエル・エンデ氏は配当や金利が社会の元凶だと説いていました。そして河邑厚徳氏が書いた「エンデの警告」という著書の中に、このように書いているのです。
「ちょっと意表をついたたとえ話をさせてください。ある人、ヨセフが、西暦元年に1マルク貯金したとして、それを年利5%の複利で計算すると、その人は現在、太陽と同じ大きさの金塊を4個も所有することになります。1方、別の人が西暦元年から毎日8時間働き続けてきたとしましょう。彼の財産はいくらになるのでしょう。驚いたことにわずか1.5メートルの金の延べ棒1本に過ぎません。」
世界の三大宗教であるキリスト教、イスラム教、仏教では100年ほど前までは金利は不当であるという理由でお金に利子を付けることを禁じていました。中世ヨーロッパでは富を追いかけること自体が貧欲の罪を犯すことで悪だと教えられていたのです。不労所得は人の道義に反すると考えられていたからです。もちろん現代社会が過去の倫理的世界に帰ることは困難だと思います。しかし、私には人間の煩悩を抑制してきた宗教を古い価値観と捨て去り、現代の“経済”と“科学”を絶対のものとする思想を単純に肯定することはできません。富を追求し高利を得ることを自由とする根拠は、欲望を経済活動のエンジンとして推進して行こうとする産業革命以後の資本主義経済の成立と深く関わっているのです。
21世紀の今日、資本主義の矛盾が頂点に達したような時代の私たちは、「経済とは道義を守ること」という先人の教えから何かを学ばなければならないのではないでしょうか。

日本の商店街がなぜシャッター通りになったのか

つまり、金利や投資による配当などというものは本来無限に増殖をするものではなく、労働者から労働対価を奪い取って得た不当な利益だとも言えるのです。
日本は不況で投資しようとしても、なかなか高額配当を得られるような投資先が見つかりません。だから投資家は資金を使わずに貯め込んでいるので、ますます不況になり失業者が増えるのです。しかし、労働者は働きたくても働くための生産手段をたいていの人は持っていないので失業したまま多くの若者は街に溢れています。しかし、失業者でも腹が減ったら何か食べなくてはなりません。だから10人の失業者が集まれば、そこには必ず何らかの需要が生れるのです。生産する仕組みをちょっと作ってやれば地域に新たな雇用が生まれます。
「TPPで関税を取っ払って安い輸入農産物を買うことが出来たら、私たちの生活は潤い、経済は発展する」とよく政府やマスコミは言いますが、本当にそうなのでしょうか。国内の商品流通を見ればよく分かります。街の小さな商店は軒並みシャッターを降ろして閉店し、大手のショッピングセンターと24時間営業のコンビニしか残っていません。私たちは確かに安い食料品を買うことが出来るようになったのかもしれませんが、その代価として遠くから運ばれてくる防腐剤入りの食べ物しか手に入らなくなり、新鮮でおいしい食材がそろっていた個性あるお総菜屋さんや魚屋さんなどの商店は高齢者の買い物難民を残して姿を消して行ったのです。このようにTPPで関税を撤廃したら、商店が姿を消して多くの中小零細企業で働いていた人びとは職を失い、人びとの暮らしはますます貧しくなるでしょう。
だから1%の人たちの莫大な利益のために、99%の人びとは非正規雇用か失業者で貧しい暮らししか待っていないのです。フィリピンなどの大規模プランテーションでバナナやアブラヤシなどの輸出作物を作る小作人の村人たちの生活は昔に比べてますます窮乏化しているのです。

日本人が失ったものを私はバリで発見した

ところで私は日本の街とは対極の街をバリで見つけました。2月の終わりに私はバリに行ったのですが、そこで発見したことが2つあります。1つは、ここでは人びとが皆さん笑顔で楽しく暮らしているように見えました。ちょうど日本の40年前の暮らしがそこにはありました。農家の牛小屋には牛が寝そべっていて、鶏が庭をかけていました。そして、人びとは家の前の縁台に座って話し込んだり、昼寝をしたりしてみんな幸せそうに暮らしているのです。(もちろん私の勝手な思い込みかもしれませんが)2つ目に、バリには小さな商店が至る所にあるのです。なぜそんな小さな商店が成り立つのか、私には不思議でなりませんでしたが、みなさん生活が貧しくて、仕事がないから道ばたに店を出したり、自転車やバイクでものを売り歩く人が多いのでしょう。(写真の上)それは地域で仕事を作り、富を分かち合う社会だとも言えるのです。例えばペットボトルに入ったガソリンが道路沿いの至る所に1リットル50円で売ってます。ガソリンスタンドでは1リットル40~45円なのですが、わずか5円の違いなら、みなさん50円でペットボトルのガソリンを買ってバイクに乗るのです。また、ここではバリヒンズー教の独特の教えなのでしょうか、花や食べ物を入れた小さなかごを朝からそこかしこにお供えしているのです。(写真の下)そして、そのかごは椰子の葉でおられたもので、椰子の葉はそこらにいくらでもあります。それを1日に何度も交換するというのです。そのお供えは小鳥の餌にもなっていましたが、そんな信心深い彼らは、このような仕事を狭い地域に作って、経済を成り立たせているのです。

私たちの「暮らし」と「文化」を守るために

日本では流通革命によって卸問屋が姿を消してしまって、それに伴い小さな商店がことごとくなくなりました。残ったのはコンビニと大手スーパーしかない非常に個性のない街になってしまいましたが、それによって失ったものは商店だけではなく、地域の文化やコミュニティーまでもをなくしてしまったのではないかと思います。それにバリの皆さんがみんな笑顔で楽しそうに暮らしている理由は、シューマッハー氏の「スモールイズビューティフル」という本を読ん初めて理解できました。「ある社会が享受する余暇の量は、その社会が使っている省力機械の量に反比例する」という一節があるのですが、つまりバリではまだ省力化が日本ほど進んでいないので、皆さん余暇があって、楽しく暮らしているのだろうと思いました。だから商店に陳列している商品が大手スーパーに比べたら少しくらい割高でも、その価格の中には地域の人びとの労働対価が詰まっていて、それで私たちの街と人びとの暮らしが成り立っているのだと考えたら決して高くはないのです。
私たちの社会もこれからバリの人びとに負けないくらいに貧しくなってくるのですから、知恵を出し合って、小さな商店やソーシャルビジネスを地域に作り出して行くしか、私たちの雇用を守り、自立的な暮らしを取り戻す方法はないのではないかと私は思います。そのような地域で仕事を分かち合う暮らしが地域の文化とコミュニティーを守ることになるのですから、地域で賄えるものは地域で賄うという社会的合意が日本の地方でも必要なのではないかと私は思います。その真逆がTPPだといってもいいでのではないでしょうか。
分かりやすい例を紹介しましょう。ブラック企業とよくわれている、ユニクロの1980円のジーパンがどのようにして店に並ぶか考えてみてください。国内メーカーの仕事を奪い、バングラディシュで1ヵ月わずか5千円以下の低賃金の女工さんが、不衛生な窓もない工場で12時間以上働かされて、女工さんの身体をボロボロにし日本にジーパンはやって来ます。そしてユニクロの非正規労働者が時間に追われ血眼になって陳列したジーパンは、私たちの「安い」からという衝動によって買い求めるのです。
このような、「経済とは道義を守ること」という先人の教えを忘れて、自分に都合のいい“経済”や“科学”による商売などに突走るのではなく、フェアトレードな輸入など他国の人びとの暮らしを守ることにより、自分たちの真っ当な「暮らし」と「文化」、つまりは「コミュニティー」を守ることが出来るのだと私は思います。(つづく:この原稿は「食と農おおいた」への連載原稿です)
 
by nonukes | 2013-09-18 10:56 | 小坂農園 薪ストーブ物語 | Comments(0)

引きこもり状態の私は1日一冊のペースで読書してます

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引きこもり状態の私は1日一冊のペースで読書してます
小坂正則

この夏は異常なほど暑かった。だから毎日起きてから、今日はどうしようと考えても、明日に出来ることは明日しようと先延ばしをして、毎日過ごしてきた。まともな仕事などしていない。もちろんそんなにやらなければならない仕事などないのだけど。
「そんなにのんきな毎日を過ごして優雅なもんだ」と言われたら、その通りなのだが、ただ、貧困生活だが暇なのだ。それでも7月中旬までは請負仕事などがパラパラあったので、結構真面目に仕事はしていた。
ところがここに来てピタッと仕事が無くなってしまったのだ。私は自営業みたいなものだから、お客様からのご依頼があれば仕事をしなければならない。どんな仕事があるかと言えば、まずは薪の注文。これは今からが本番だから10月からフル回転で忙しくなる予定だ。次にペレットストーブの工事や相談。今年はまだ1件もない。次が講演の依頼だ。これはパラパラとあるのだが、でも講演原稿とプレゼンテーションを作るのは部屋にこもって書くだけだから仕事をしているという実感がない。だって趣味の延長線のようなものだからだ。もちろん月に1回から3回くらいの講演に行くときは頑張って仕事をしたという実感は持てるんですが。でも、これはほとんどお金にはならない。交通費プラス1万円くらいだ。その原稿を作るのに3日から下手をするともっとかかる。先日は福岡のアウトドア-ショップのパタゴニアに呼ばれて行ったんだけど、パワーツーザピーピルという映画の後に講演するというので楽しかったのです。だから私のようなプラプラしている半失業者にとってはたまに講演の仕事があるというのは恵まれた失業者だと思う。
一番嫌な仕事は報告ものだ。環境省や県やNEDOなどへ様々な報告ものが私を毎月のように追っかけてくる。これと会議だ。会議だけは行かないわけにはいかないから。

引こもり状態の私でも悩みはいろいろあるんです

そんな自由な生き方をしているわたしなのですが、ちょっとこの夏は本当に暑かったから本を読むことにしたのです。何とこの10日ほどは毎日1冊のペースで本を読んでいるのです。もともと出不精だし、ほとんど私は引きこもりか独居老人状態なので本が一番私に取っては暇つぶしに最適なのです。それから毎日の日課はヤギの餌やりと散歩です。これが本当は一番の私の仕事のような気がします。毎日朝夕の散歩のついでの餌やりなのです。ヤギというやつは気まぐれで、大好きな餌でも食べ過ぎたら見向きもしない。今度は別の餌を欲しがるのです。
先週から今週にかけて読んだ本の一部を紹介しますと、「年収150万円で僕らは自由に生きていく」イケダハヤト著、 「格差と貧困のないデンマーク」「世界一幸福なデンマークの暮らし方」千葉忠夫、「裸でも生きる」「裸でも生きる2」山口理恵子、「年収100万円の豊かな節約術」山崎寿人、「独立国家の作り方」坂口恭平、「アメリカに潰された政治家たち」孫崎亨、そして今読んでいるのが 「里山資本主義経済は安心の原理で動く」藻谷浩介とNHK取材班だ。今日はこの本で2冊目突入だ。さっき読み上げた孫崎さんの本は実におもしろかった。こんなおもしろい本は久しぶりに読んだ。彼は日本の政治家や官僚やマスコミはアメリカのCIAに乗っ取られているという。そしてアメリカの言いなりにならない人間は必ず陥れられると。その代表的な人間が田中角栄であり、小沢一郎であり、鳩山由紀夫だという。官僚や政治家の中にも米国追従派と日本独立派がいるという、親中国派で反米派の人間は必ず米国の息のかかった政治家や検察庁や官僚から攻撃されて陥れられてきたと。私もそう思う。小沢は自民党幹事長のころアフガニスタン・イラク攻撃のころは親米派だったので130億ドルの肩代わりや自衛隊海外派兵などを積極的にやったが、民主党党首になって、反米路線に切り替えたことろで、政治資金規正法違反で失脚させられたのだと。私もその通りだとおもう。原発再稼動も米国に意志だと。米国追従の首相しか日本では続けられないのだと。石原某元都知事はCIAのエージェントだと孫崎はいう。は私もそい思っていた。石原の売国奴め!奴がアメリカの意の元に尖閣列島の買収などという日中関係をこじらせる問題を持ち込んだのだから。石原のバカがもと青嵐会とかいって右翼のような愛国者のような振りをしていて、何てことはない。金のためかアメリカCIAのために行動する売国奴だったのだ。本人はそれでもアメリカのために動くことが天皇制を守るための最善の方法とでも思っているのだろうか?バカな奴だ。天皇を守るなら米国の言いなりにならないで、日中・日韓友好のアジア外交を優先しろ。それとも中国と戦争でもする気なのか。とまあ、1人怒っている。私のような公安が付けまとってた「過激派」の方がよっぽど石原よりも右翼だ。だって天皇に放射能被曝させるわけにはいかんだろう!放射能に汚染した食べ物を天皇にも子どもたちにも食べさせたくはない!日本のふるさとを守るのも鎮守の森を守るのも日本の海を守るのも「過激派」の私の方だ。天皇のために命を賭けてるような振りをしている「右翼」たちしっかりしろ!といつも怒ってる。だから毎晩酒の量が増えてならない。明後日とその次の日は講演なので、そのために本でもあるんだけどね。
13日は福岡で、私は生まれて初めての3回講演だ。おまけに真ん中はワークショップだからただ話せばいいだけではない。ワークショップのテーマは「幸せに生きる」か「マイナス経済社会を楽しく生きる方法」か「地域を元気にする方法」などなど。皆さんが決めるというから、これは行き当たりばったりの真剣勝負です。でも、講演は、一応のストーリーはあるんだけど、ほとんどその場の真剣勝負なのです。皆さんの反応を見ながらストオーリーを変更するんです。だって、おもしろくなかったらもう私を二度と呼んでくれませんから。だから近頃はめっきり講演の依頼が減ってきたのですかねえ?それとも311から2年半も過ぎると、皆さんの意識からエネルギー問題や原発のことなどかまってはいられないのか?さあ仕事仕事。
こんな自堕落な引きこもりの自由人なのですが、それでも苦労は少しはあるんです……。
by nonukes | 2013-09-10 21:33 | 小坂農園 薪ストーブ物語 | Comments(0)

総合商社と化した大規模生協が流通合理化のために生産者を切り捨てる

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大きいことはいいことか 小坂正則

2010年の暮れに某生協職員で青果担当のEが私の自宅にやって来た。私のオヤジは農家で、びわを中心にして甘夏などのミカンも作っていた。そして某生協が大分で活動をはじめた27年くらい前から生協にびわなどを出荷するという関係が出来ていた。
私のオヤジがなくなってからは私が後を継ぎ、兼業農業でびわなどを作っていたが、私も忙しくて、農作業の大半は有償ボランティアの仲間に手伝ってもらっていた。それでも年間には数十万円の売り上げになり、市場に出荷することを考えたら遙かに高収入の農業が出来ていた。とはいっても、労賃などで利益はほとんどなかったが、オヤジの残してくれた果樹を守ることが息子の出来るせめてもの親孝行だと思っていたのだ。そこへ突然やって来たEは「小坂さんの農業に対する姿勢に熱意が感じられない」と話し始めた。というのも、農薬を使っていないという証明のために耕作日誌を書いて提出するように求められていたのだが、毎年、年度の終わり頃にペーパー1枚にメモ程度の日誌を提出していたことを追求されたのだ。私の日誌は2月寒肥やし、4月びわの袋かけ、6月びわの収穫、7月お礼肥やしと剪定、以上だからだ。でもそれ以外に農薬をやったりしていないのだから書くことはない。それを根拠に熱意を感じられないというようなことを話していたが、そしてEは「あなたは反原発運動などで忙しそうだし生協への出荷を辞退してはどうか」と問われた。私は「生協への安定供給があるから今の農業が成り立っているので、生協に出荷をやめることは農業をやめることになるから、それは考えられない」と反論した。Eも大変困った様子で沈黙が続いたので、私が最後にこう喋った。「私から生協への出荷をやめることはない。生協が私を切るなら切るとハッキリ言いなさい」と。後日Eがやって来て「生協の理事会で小坂の農作物は今後一切取り扱わないことを決めた」と通告してきた。私は少し腹が立ったし、生協の組合員から「なぜ小坂さんは生協への出荷をやめたのあなたのびわを楽しみにしていたのに」と残念がられる方から声がかかることもあったが、生協の組合員と一緒に脱原発運動などもやっているので、この問題は私の腹に収めておこうと決めていた。
ところが、それから3年経った今年の7月に私は緑の党の事務局長として活動する中で、私たちの仲間になってくれた農家の方との会話の中で、このもやもやに再び火が付いてしまったのだ。「私は事務局長の小坂ですが緑の党に加入していただいてありがとうございます」と電話したら、相手の方が「小坂さんといえば某生協に出荷していたびわの小坂さんじゃないでしょうね」という。私は「びわの小坂です」と話すと、「私も出荷してるのです」という。私は「出荷を切られてしまったのです」と話すと、「そうなんです。あのとき私以外の生産者は全員首を切られてしまったのです」というのだ。私は「それでは臼杵のKさんも切られたのですか。あの方は週に3回も葉物野菜などを丁寧に集荷センターに持って来ていて、大切に仕分けをしていて大変熱心に農業をやっていた方だったのですがねえ」と。「そうです。大分で仕分けしていたシステムから福岡や熊本で大規模の戸別仕分け作業に変わったので、葉物などの痛みやすい作物は日持ちがしないので大分から福岡に送って、それをまた大分に逆輸送する間に痛んでしまうということで取引をやめたのでしょう」というのだ。
私の農業に対する熱意がないから切ったのではないことが分かった。総合商社と化した大規模生協が流通合理化のために生産者を切り捨てる手段として私に「農業に対する熱意がない」とうそぶいたのだ。
某生協も「安心安全な食べ物を消費者に」や「地域の農業を守り、生産者と消費者が顔の見える関係を」などというスローガンを掲げていたように覚えている。そんな生協が総合商社と同じように流通合理化のために地域の小さな農家を潰して大規模農家の大量生産作物だけを取り扱って、大量のガソリンを使って無駄な輸送を行う。これが地域生協の現実だった。だって、大分で作った作物をわざわざ福岡や熊本まで運んで、また大分に持って帰って、私の隣の家に配達するという無駄なことをするのだ。その理由は人件費の節約だけだ。大分で仕分けをしなくなったことで首になったパートの人もいただろうと私は察した。

私たちがめざすべき社会が鮮明になった

後日談だが、私は細々とびわなどの出荷を続けている。近頃、とあるオーガニック商店から「小坂びわを取り扱いたい」という声が届くようになった。私がもっと積極的に営業すれば良かったのだが、いまだに小坂びわのファンの方がいることに涙が出そうなくらいうれしい。
私は「生協は利益第1主義の添加物だらけの大手スーパーに比べたら少しはマシだ」と思うので生協がなくなったら困る。でも、一番大切なのは地域にある小さなスーパーや小売店だ。このような商店が一番新鮮な野菜や果物を消費者に直接届けることが出来るし、地域の文化やコミニュティーを守る役割を担っているのだと思う。大量生産・大量消費に支えられて大きくなるばかりの生協に対して、私たちのような小さな社会をめざす文化や価値観こそが、私たちのコミニュティー社会を支えて地域を元気にする基本理念だと私は確信した。それにしてもKさんはどこかほかほかに販路を見つけただろうかと私は心配でならない。
by nonukes | 2013-07-05 09:06 | 小坂農園 薪ストーブ物語 | Comments(0)

  小坂正則