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小坂正則の個人ブログ

カテゴリ:反原発オヤジの子育て記( 9 )

今日は広島原爆が投下された8月6日です。リメンバー広島、長崎、福島

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今日は広島原爆が投下された8月6日です。リメンバー広島、長崎、福島
小坂正則

広島の原爆記念碑に「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」と書いているそうですね。この記念碑の言葉は米国に気兼ねして「繰り返させません」とは書けなかったのかもしれませんし、哲学的な意味で「米国に原爆を落とさせたのも日本が日中戦争を仕掛けて、日米開戦までやったことが、その要因なので私たちが悪かったのだ」という意味なのか。
それとも「この過ちは人類全員の言葉」として言っているのかもしれませんね。しかし、私はどう考えても「もう再び過ちは繰り返させません」と言うべきだと思います。「しません」よりも、「させません」の方がより積極的だからです。それこそが積極的平和主義という安倍首相の好きな言葉だからです。

戦争を早く終わらせるために原爆を投下したのではない

私の雑ぱくな歴史認識では不十分だということは認識しつつも、やはり一言いいたのです。東京大空襲や大分大空襲もあったそうです。大分市街地も丸焼けになりました。全国至る所で戦争施設でもない民間施設を米軍は徹底して攻撃しました。これは明らかに国際連盟の戦争法に違反した行為です。ましてや大量破壊兵器を使って史上最大の悲劇を2度も繰り返した米国が何の非難もされないで戦後70年間もぬくぬくと過ごしてきたことは20世紀の歴史上最大の汚点です。ミッドウエー海戦の敗北からから日本の敗戦は時間の問題だったと言われています。そして原爆開発を急いでいた米国は「早く原爆を完成させなければ日本が降伏してしまう」と焦っていたそうです。ほんとうは6月頃には日本の外務省は条件付き降伏を米国へ打診していたそうですね。しかし、米国は交渉を長引かせて、「何としても原爆投下実験をやるまでは日本の降伏を引き延ばせ」という指示があったといわれているそうです。そして原爆がギリギリ完成して、やっと安心して米国は日本で人体実験が出来たのです。つまり、広島・長崎の人々は米国という非情な国の人体実験に使われたのです。
それでは「なぜ2個も実験をする必要があったのか」というと、広島はウラン型原爆で、長崎はプルトニウム型の原爆です。どうしても2個とも人体実験をして、どっちが効果が大きいかを試したかったのです。ひどいものですよね。米国に太平洋戦争の正義など微塵もありません。もちろん日本にも微塵もないことは当たり前ですが。
私は広島・長崎の人々は二重の意味で犠牲者だと思っています。1つはバカな日本軍と国家官僚のバカどもが戦争をやったらはじめから負けることは誰にも分かっていたのに、無謀な戦争に突入させたことによる犠牲者だという意味で。そして、降伏のチャンスは何度もあっただろうに、ぐずぐずと負けを認めなかった腐った根性に。そしてもうひとつは米国の人体実験に利用された犠牲者という意味にです。

真珠湾攻撃も実は米国の罠にはまったという

真珠湾攻撃で日本は華々しい戦貨を納めたと日本中でお祭り騒ぎが行われたといいますが、これも実は米国の罠にはまって、真珠湾攻撃を誘導されたという説があります。なぜなら米国は日本の秘密暗号をすべてキャッチしていて、知らない情報は何もなかったと言われています。ルーズベルトは大統領になるときに「私は絶対に戦争はしない」と誓約して大統領になったので、「日米戦争をやるには国民の圧倒的な同意がなければ戦争は出来ない」と思っていたそうです。そこで、真珠湾を日本に攻撃させて、米国民の怒りを燃え上がらせようとしたそうです。だから真珠湾には最新鋭の空母は全て避難させて、ポンコツの戦艦だけを並べていたというのです。真珠湾攻撃を指揮した山本五十六は部下に「空母はどこにいる空母はどうした」と怒りまくっていたといいます。本来は空母をやっつけに来たのですが、空母はいなかったのです。そこで山本は「真珠湾攻撃は失敗だ」と語ったそうです。

市民にとって戦争に勝者も敗者もいません

私は戦争は一部の戦争で利益を上げる武器商人やその他の戦争で儲かる人間が仕組んだ金儲けの企みだと思います。負けた国も国民は悲惨ですが、勝った国の国民も同じように悲惨です。米国がアフガニスタンやイラクに仕掛けていった戦争で従軍した兵士の皆さんは戦争が終わって米国に帰ったあともPTSD(心的外傷後ストレス障害)などの治療に苦労しているそうですし、自殺者や廃人になってしまった人も多いといわれているのです。
ただ、一番の犠牲者は日米戦争に巻き込まれた中国・朝鮮半島・東南アジアの2000万人とも3000万人ともいわれる犠牲者の皆さんです。日本での310万人の方が亡くなっているのです。その中には台湾人や中国人や朝鮮人も含まれています。
イスラエルによるパレスチナへの攻撃も同じです。一見したら犠牲者はパレスチナの1900人余りの子どもたちや市民ですが、いま世界中でユダヤ人排斥運動が各国の右翼によって起こりつつあるそうです。右翼はガザを利用してユダヤ人排斥運動を繰り広げているのです。結果として各国に住んでいるユダヤ人がイスラエルの蛮行によってこんどはユダヤの同胞が攻撃されるという負の連鎖に巻き込まれるのです。どこかで負の連鎖を断ち切らなければなりません。それは「市民にとって戦争に勝者はいない」ということを敵味方で理解することです。

日本の指導者といわれる者はどこまでおろかなのか

何千万人ものアジアの民衆を犠牲に巻き込んだ日本の軍部や政府に、それを資金面で支えた財閥の責任は大きいのですが、その過ちから彼らは何も学んではいないのです。だって、福島の原発事故は、日本の官僚と電力会社の硬直した頭で進めたエネルギー政策の融通のきかなさの現れです。戦艦大和を作った時代から日本の官僚は一度決めたことからは決して軌道修正ができないのです。第二次世界大戦では戦争の主役は戦艦から空母による飛行戦に時代は大きく変わっていたそうです。それにも関わらず、巨砲主義で大きな大砲を積んだ戦艦を作ることにこだわった日本軍人や官僚は、軌道修正できずに役立たずの「ウドの大木」の戦艦大和など作って沈没するためにだけ沖縄へ初航海に向かったのです。そんな自殺行為のために3000人以上の若者が死んでいったのです。神風特攻隊も同じです。安倍首相のお友だちの百田なんとかというインチキ作家が作ったインチキ映画「永遠のゼロ」で皆さんは騙されているようですが、多くの若者が無駄死にをしたのです。
今日の朝日新聞にありましたが、それにしても吉永小百合さんは素敵ですね。広島・長崎そして福島を伝え続けたいと語っています。「原子力発電はやめなければいけない。これだけ地震の多い国で、まったく安全ではない作り方、管理の仕方をしているのですから。どうやって廃炉にしていくかを考えないと」そして「いませっかく原発が止まっているのだから、今やめましょう」また「人間のいのちの方が電力よりも大事じゃなういか、という根本だけは忘れたくはありません」。吉永小百合さんの爪のアカでも日本の官僚と電力会社と、それに一番飲ませてやりたいのは安倍首相です。私にとって吉永小百合さんは永遠のマドンナです。
最後に広島の犠牲者のみなさまのご冥福をお祈りいたします。


by nonukes | 2014-08-06 11:45 | 反原発オヤジの子育て記 | Comments(0)

安倍の「愛国心」と私たちの「愛国心」

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安倍の「愛国心」と私たちの「愛国心」
小坂正則

私にはいつも疑問に思う言葉がある。「愛国心」という言葉だ。よく右翼や保守的な政治家がこの言葉を使いたがる。近頃は私の大好きな安倍首相が盛んにこの言葉を使う。もっと以前から石原慎太郎なども盛んにこの言葉を使っていた。そういえば民主党の前原や自民党の石破に、橋下大阪市長なども好きな言葉のようだ。彼らに共通していることとして、一番愛国心とは縁もゆかりもなさそうな方がこの言葉を好むような気がする。金と女にしか興味がないような脂ぎったうさん臭そうな小太りの社長や政治家が、自分には微塵も愛国心などない、そんな人間に限って「愛国心教育がこの国には足りない」などというのだろうか。そういえば小学校の校長や教育長や市長など、どうも長と付く人たちは「愛国心」が好きらしい。なんだか「愛国心」を押し売りする人たちを私は気持ち悪く感じてしまうのだが、それは私の気のせいだろうか。

ずる賢い人ほど「愛国心」の押し売りをしたがる

北朝鮮おかっぱ頭のお兄ちゃんの親父が亡くなって1年が経ったらしい。だから北は国家総動員で「おかっぱ頭の兄ちゃんを我ら国民は愛している」とか「偉大な指導者おかっぱ頭の兄ちゃん」とテレビで流している。でも、そんなに北の人民はバカじゃない。彼らはテレビを見ながら反吐が出ているだろう。そんなに偉大な指導者なら我々に満足な飯を食わせろ」とかいって醒めているのではないだろうか。「愛国心」の押し売りをする権力者ほど自らが弱体だということを証明しているようなものだから。強固な国民の支持と民主主義国家を作っている国ほど国民に自由と権利を与えるものだ。だから、有権者の15%の得票数で出来た我が政府も「いつこの自民党政権が崩壊するかもしれないから今のうちに北のような国家独裁体制を打ち立てておこう」と考えているとしか私には思えない。
日本で「愛国心」の押し売りをしている人たちは北の国家権力が行っているようなことを自分たちもやろうとしていて、それはハレンチで国民に見透かされていることを理解できていないのだろう。「愛国心」の押し売りをしたい人たちは、あまり頭がよくないのではないだろいうか。だって、「愛国心」を子どもたちに押しつけるよりも、自然に「愛国心」が芽生えるような雰囲気を醸し出す方が効果が大きいことを理解していないのだろう。
ヒットラーはオリンピックが愛国心を国民に植え付けるのに一番だということをよく知っていた。サッカーワールドカップなどが愛国心を植え付けるには一番効果があって、学校で強制するのは逆効果だってことを安倍さんは分かっていないようだ。

「国益」を強調する人たちが一番国益を損ねている

「愛国心」が好きな人は「国益」という言葉も好きなようだ。だからこれも実にうさん臭い。日本の国益を守るために「積極的平和主義」を掲げて「自衛隊を国防軍に名前を変えて憲法9条をなくさなければならない」と安倍首相はいう。「国益のためめに原発は必要だ」ともいう。
どうも「国益」を強調するひとは自分の懐にお金が入ることが「国益」だと思っているようだ。だって、日本の平和を守るためには中国とも韓国とも仲良くしなければ「国益」は守れないのに、米軍の中古兵器やお下がりの兵器を高い値段で買ってきて戦争の準備をしたがる人が本当に「国益」を考えているのだろうか。福島原発が事故を起こして世界中に放射能をばらまいて迷惑をかけたのに「日本の原発は世界最高水準の安全な原発」といって世界中に売り込んでいる。そんな詐欺まがいの総理大臣は本当に「国益」を考えているのだろうか。ひとたびベトナムで原発事故が起きたら日本はとてつもない損害賠償を求められるというのに。目先のことばかり考えている人たちに「国益」をいう資格はない。TPPは日本の権利を米国に安く売り渡すことだし、この国の政府は「国益」も「愛国心」も微塵もないのではないかと私は思う。

子どもたちに伝えたいことは教えるものではなく、自然に伝わっていくもの

ベトナム戦争時にベトナム解放戦線のホーチミンさん、後のベトナム大統領は「自由ほど尊いものはない」と言って、祖国ベトナムをアメリカの侵略者から奪い返すためにいのちをかけて戦った。そしてベトコンのゲリラたちは、あるときは農民で、あるときはゲリラで、いのちを惜しまず米軍へ死を覚悟して突撃して死んでいった。米兵たちは誰が農民で誰がゲリラか分からず恐怖の余りソンミ村など多くの村を焼き払い殺し尽くして恐怖におののいた。だから米兵の多くは麻薬を打って、死ぬか、生きながらえたとしても精神疾患や廃人となって祖国へ帰って行った。彼らには何の正義も戦争を行う理念もなかった。ただ、自分がゲリラに殺されないために農民を殺し尽くした。何の正義もない戦争にかり出された米兵は、ある意味では最大の犠牲者だったのかもしれない。私は子どもや孫に米兵の若者が味わったような卑劣な人殺しは絶対にさせたくない。
祖国を守るために戦ったベトナム解放戦線兵士は「愛国心」という言葉を子どもたちに教えなくても彼らの行動が子どもたちに「この国を守ることの重要性や勇敢に米兵と戦った大人たちの勇気や偉大さ」は教えられただろうと私は思う。
「5000万円を無利子・無担保・無催促で貸してもらった」と言って、責任を逃れようとする猪瀬東京都知事に子どもたちへ道徳や「愛国心」が教えられるだろうか。橋下大阪市長が教師に処分を乱発して、そんな学校現場で創造的でのびのびした子どもたちを作る教育ができるだろうか。彼らは子どもたちの創造性を奪って、命令で動くロボットのような人間を作りたいだけなのではないかと疑ってしまう。そんな教育をしていたら、創造的な発明も奇抜なアイデアも生まれては来ない。
だから私はどう考えても彼らこそ一番の「反愛国心」主義者だと思うのだ。わざと日本に住む子どもたちの創造性を奪い取って、この国を最貧国にしてやろうと思っているに違いない。創造的な人間がたくさんいて自由で豊かな国と国民を作りたいのなら、学校など行きたいときに行けばいいという自由を子どもたちに与えて、子どもたちの目を研ぎ澄ませることが一番大事なことなのだから。
だから私は「愛国心」や「国益」を強調する人間を信用しない。黙々と働く農民や労働者や街を歩いていて私とすれ違う道行く普通の人びと、1人ひとりに大切な人生があり、その人のやさしさや良心がある。だから、そんな1人ひとりが「愛国心」や「国益」を担っている。
大きな声を上げてデモをする私たち「テロリストのよなもの」や、「子どもたちを二度と戦場に送るな」という日教組の組合員や、「労働者の基本的人権を守ろう」というレッドデータブックに載るような希少な労働組合員や「辺野古に米軍基地はいらない」と言って海岸に座り込んでいるオジイやオバアたちの方がおもちゃの兵器をもてあそんで喜んでいる石破さんや安倍坊ちゃんや橋下よりもよっぽど「愛国心」があって「国益」を考えているのではないだろうか。
by nonukes | 2013-12-18 18:41 | 反原発オヤジの子育て記 | Comments(0)

「多様性」と歴史認識について

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「多様性」と歴史認識

先日、「多様性の尊重」ということがエネルギーではなぜ必要かということを書きましたが、農業でも植物や動物の多様性が安定した世界を構成するためにはなくてはならない条件だと言われています。
しかし、私たち人間社会でも、この「多様性」を認め合うということが、私たちが平和に暮らすためには最も必要なことだと思います。戦争を起こすには相手国の国民の生存権を真っ向から否定わけですが、そのためには対立する相手国の人びとの主張を全面的に否定する論理がなければ戦争はできないはずです。相手国の国民の主張を真っ向から否定する論理とは「自分たちの価値観が絶対に正しい」と思い込む確信的な自信がなければ武力挑発や戦争など、そう簡単にはできないはずです。しかし、世界中でいつでもどこの国とでも戦争を平気で起こす国が米国です。この国は本当に困ったもので、誰も頼んでいないのに勝手に「世界の憲兵」を自認し、「アメリカ民主主義が世界の絶対的正義だ」と思って疑わないのです。この米国の独善的な価値観を越える論理は「多様性を認め合う」ということだと私は思います。私たちが世界中の人びとと分かち合い、平和に暮らすには何が必要なのかを、私が経験した2、3の出来事から考察してみようと思います。

尖閣列島・竹島の共同管理が最善の解決策

一番多様性を尊重しないのが国家だと思います。国家は他の国を排除して、自分の国の利益を第一議的に考えます。それぞれの国が互いに競争することはいいことですが、行き過ぎたナショナリズム教育や民族排外主義は国家間対立を生み、その結果、戦争などに発展するのでしょう。昨年の総選挙前に尖閣列島問題が持ち上がって、自民党支持率がグンと上がったとマスコミは伝えていました。ナショナリズムを煽り立てると排外主義思想がはびこり、国民は右傾化して平和勢力は一気に人気をなくしたといわれています。
尖閣列島の国有化により野田政権への批判が一気に盛り上がりましたが、この問題に火を付けた張本人は、「日本維新の会」代表、元東京都知事の石原慎太郎です。彼によって仕組まれたといってもいいでしょう。日中間系をこじらせて戦闘状態に持ち込めば、自衛隊のひ弱さがクローズアップされて、憲法9条の改正へ突き進み、軍事国家を一気に完成させることが出来ると考えたのかもしれません。その裏では米国の意図も感じられます。日中が対立すれば普天間問題やアメリカ軍への批判を和らげる可能性もあるし、日中関係がこじれて日本企業の中国市場でのシェアが落ちたら、それで利益が出るのは米国企業だからです。
日本に取ってはこんな不利益はありません。日中関係がこじれて日本企業の売り上げは半減し、その分は韓国とアメリカの製品が売れたのです。経済連会長はよくも、この石原の暴走に何も文句も言わないものです。

竹島は韓国軍が常駐していますが、竹島にも尖閣列島にも先住民といわれる人は住んではいません。これまで長い歴史の中で、それぞれの島では日本・韓国・中国・台湾の漁師が一時避難場所などに利用していました。だからこれらの島は誰のものでもないと私は思いますし、共同管理こそ互いの国が合意できる唯一の方法だと思います。もちろん、尖閣列島が沖縄のすぐ近くにあったり、そこに今でも住民が住んでいるのなら話は別ですが。
この島をめぐる対立は、領海権と地下資源の占有権にこそ大きな理由があるようです。領有権解決のためには互いが話し合いのテーブルに着き、時間がかかってもじっくり平和的に議論をつくすことが最大の解決策です。交渉ごとでの「多様性の尊重」とは相手の立場や利益も考えた上で双方が利益となる最大公約数の妥協点を図ることをいうのでしょう。
今回の日中関係の軋轢は日本側には自民党など保守勢力の拡大と中国側には国内矛盾を反日運動で隠そうとする意図が問題を複雑にしているのかもしれませんが、日本政府の尖閣列島問題への取組は問題をややこしくして、ますます日中間の対立が深まるだけのように見えます。

歴史認識とは「多様性」を認め合うこと

人は皆、それぞれの考え方や価値観や思想があります。ましてや異国の人であれば文化や生活様式や習慣も違うのですから、他人と「簡単にわかり合える」と思わない方がいいのです。簡単にわかり合えると思わない方が、それぞれの違いを尊重する第一歩だからです。家族でも利害の対立や嗜好の違いによる争いがあるのに、他人との間でそう簡単に理解し合えると思うと、「私はこれほど相手を尊重しているのに私のことをちっとも尊重してくれない」という不満が溜まってくるのでしょう。
私は「多様性が必要」ということを強く感じたことは、これまでに2回ありました。1つは韓国の独立記念館を訪れた時のことです。伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュングン)という韓国青年のことを私たち日本人は、日本の自由民権運動の英雄を殺した犯罪者として、歴史教科書では習いました。 しかし、韓国では歴史が日本と逆さまだったのです。彼こそ朝鮮独立運動の英雄であり、神のような存在だったのです。この歴史認識の違いは、私たちが韓国の人びとと仲良くなろうとすれば避けて通れない問題だと思います。
私は、私の子どもたちに「韓国独立記念館へ一度は見学に行った方がいいよ」と説いています。韓国のことを理解して、より親しくなるためには当然ですが、「歴史認識というものは国家によって作られたものなのだ」という真実を知る意味からも大変興味深い事例だと思うからです。そこで自分は果たしてどちらを信じればいいのかという疑問が生じると思います。子どもたちから「どちらが正しいのか」と聞かれたら、「どちらが正しいかは自分で考えなさい」と、私は子どもたちには言いたいと思いますが、残念ながらいまだ聞かれてはいません。
もう1つは9.11テロ事件です。この事件は悲惨なテロにより多くの米国人がいのちを失った悲劇だと私は思っていました。しかし、パレスチナの市民が万歳を叫びながら狂気に沸いている光景を中東のアルジャジーラ放送は映し出していました。この映像を見て、私の常識や正しいと思う根底にある価値観にある種の揺らぎを感じたのです。「私の価値観は歴史や社会によって作られたもので、ひょっとすると、その価値観は絶対的なものと私が勝手に思い込んでいるだけなのではないのか」と。しかも、「その中にはウソが刷り込まれているかもしれない」と。そして「私の周りにはまだまだ私には理解できない多くの人びとの価値観が存在しているのではないか」と思ったのです。
つまり、私が他人の価値観や多様性を尊重できてはじめて、価値観の違う人びとと真の友好関係を築くことができると思うのです。私は日本人であることに誇りを持っています。また日本にずっと住んでいたいと思っています。だから誰かに仕組まれて私たちが対立しあう構造からどうやったら抜け出せるのかを、いろんな国の人たちと互いに議論できたら素晴らしいだろうなと思います。そして、それぞれの違いや価値観を認め合う「多様性」の尊重こそが、私たちが求める民主主義社会そのものなのだと思うからです。
by nonukes | 2013-03-26 22:16 | 反原発オヤジの子育て記 | Comments(0)

「ぼくはお金を使わずに生きることにした」を読んで感じたこと2

「お金を使わない生活」は楽しく、自分も社会も変えられる その2
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お金をかけなくても「今日はゆっくりecoがいい」を楽しく開催

前回、「お金のない生活が楽しいし、社会の呪縛から逃れられるのではないか」というお話をしました。そこで今回もその続きを書きたいと思います。というのも、こんなことがあったからです。
これまで毎年100万円近くの予算でNPO主催の「今日はゆっくりecoがいい」という環境イベントを11月最初の土曜日に田の浦ビーチで開催してきました。今年は国からの補助金もなければ県や市からの補助も何もありません。だから今年はやめようと私は思っていました。しかし、3.11脱原発のパレードとマルシェに積極的に関わったランちゃんが「私が手伝うからやろうよ」といってくれたので、私も半ば諦めていたイベントを開催する決心がついたのです。予算は10万円以内。できれば5万円くらいがうれしい。そして、「出店者には出店料をもらうし、テントも机もすべて自分で持ってくる」という条件で呼びかけたら、約30店舗の応募があり、当日はお客さんも予想を遙かに上回る大盛況のイベントが開催できたのです。
これまではテントの設置や配線工事に何十万円と支出して、新聞広告や折り込みチラシなども数十万円をかけて出稿していたのをすべて削減して、チラシも5000枚だけをみんなに配布してもらっただけでした。それなのに、みんなもお金がないことを理解してくれて、暖かな手作りの催しが実現したのです。多くのお客さんや出店者から「こんな素敵な催しは初めてだ」とうれしい声をかけてくれました。つまり、「お金を使わなくても知恵と想いを込めれば人びとを感動させる催しはできるのだ」ということを実感したのです。これこそ「今日はゆっくりecoがいい」の神髄ですよね。そのことを私はイベント5年目にして初めて自覚できたのです。

貧乏暮らしは松下センセの教えに従った

私の恩師である松下竜一センセは作家業界きっての貧乏作家でした。以前、九大の平井助手の講演会を開催した後の宴席で、なぜか年収の話になり、平井さんが「私の年収は600万円くらい」というと、松下センセは「ひぇーそんなにもらっているんだ」といいました。横に座っていた私も「私だって500万円はもらっているよ」というと、松下センセは「小坂もそんなにもらっているんだ」といって、ちょっとショックなようでした。だって、松下センセは年収150万円くらいだったので、弟子の私が恩師の3倍以上も年収があるのがちょっとショックだったのだと思います。しかし、今の私はNPOのたった1人の専従です。給料は税込み12万円ですが、7月からは給料を支払っていません。なぜかって、収入がほとんどないので、自分で自分に支払うようなものだから面倒くさくて出していないのです。どうせ年度末に赤字になれば私が立て替えるのですから。だから年収でいうとほとんどマイナスかゼロに近いと思います。「自分でもよく生活が成り立っているな」と感心してしまいます。まあ、それでも、私は恵まれています。家賃はいらないし、電気代は太陽光発電が稼いでくれるのでほとんど不要ですし、簡易水道ですから水道料金も不要です。しかし、社会保険料や車の維持費やなんかで年間100万円は固定の支出があります。わずかな講演料と薪の販売収入が私の収入のすべてです。でも、毎日、何とか生きていけるのですから、人間は何とかなるものですね。
そんな貧困生活を送っている中で私は今回の「ぼくはお金を使わずに生きることにした」という著書に出会ったのです。これは偶然ではないと思います。出会うべくして出会ったのです。

マイナス経済成長の社会で幸せを実現するにはどうすればいいか

私は11月にある高校の社会教育というカリキュラムに呼ばれました。自然エネルギーの話をすればいいのだと思ったですが、それだけを話しても高校生がどこまで理解してくれるかも分からないし、「ほとんどの生徒とはもう二度と会うことなどないのだから、心に残ることを1つだけでもいっておきたい」と思ったのです。
そこで自然エネルギー、特に太陽光や風力発電やバイオマスの熱利用などによる雇用を生み出す割合を簡単に試算してみました。するとバイオマスの熱利用が同じだけ投資しても雇用を生む効果は一番大きいのです。という話をしました。おまけに日本のスギはこれから中国や韓国に売ることが出来るので林業をもっと発展させれば、私たち大分の地方の人間が生き延びる方法はいくらでもあるし、「山は再生可能な油田」と同じだ。と吹聴しました。
次に東京の企業が大分に進出してメガソーラーを設置しても、大分の地域にお金が落ちるのはわずかな地代だけで、それだったら大分のみんなでメガソーラーを設置したら、地代の10倍以上のお金が落ちるし、そのお金の大半が大分の地域にお金が回り雇用も生まれる可能性がある。しかし、東京本社の企業は不況になれば地元採用の派遣社員の首を切って東京に逃げてしまうが、大分の社長は倒産するまで地元から逃げることはない。だから地域の資源は地域の企業が利用して地域の人を雇用するのが地元のためになるのだと話しました。「お金は狭い地域で回すのが一番地域が豊かになる」という話をしました。

「幸せとは何だろうか」を考えてみませんか

最後に「あなたにとって幸せとは何だろう」と問いかけてみました。日本は戦後から70年のオイルショックまで高度経済成長を突き進みました。しかし、70年代のオイルショックから90年代の失われた20年といわれる時代を経て、低成長時代へ突入したのです。既に経済成長の時代は終わりました。しかし、考えてみれば当然のことです。ヨーロッパでは70年代から安定成長とか低成長という時代を40年もの間過ごしてきたのです。世界幸福度ランキングで世界一はデンマークです。ちなみに日本は90位です。経済成長がなくても医療や雇用や福祉が充実していれば人びとは幸せなのです。
ところで中国が毎年8%の経済成長を遂げています。2020年には2010年の2倍のGDPを実現すると中国政府は発表していましたが、そうなれば中国が世界一の経済大国となるでしょう。しかし、そんなに経済発展を遂げたら地球は持つのでしょうか。大変疑問です。レスターブラウン氏は「プランB」という著書の中でこのように言っています。中国が年率8%の経済成長を続ければ2030年には国民の3/4の人が車を所有し、12億台の車が走る。そして中国で1日9000万バーレル石油を消費する。しかし、世界の原油生産量は1日に8500万バーレルしかない。つまり、この時点で私たちの石油の需給は崩壊するのだというのです。
これからの日本は経済成長しないでしょう。すると、わずかな給料しかもらえないかもしれません。それだったら、その分お金では買えないものを私たちの喜びとして生きていかなければならないのです。それは時間かもしれません。私が自由に使うことの出来る時間です。そして資本主義という社会体制は利潤を得ることが出来なければ誰も投資はしませんがNPOや協同組合など非営利事業は投資への配当をしなくてもいいのです。次の時代の主人公は非営利組織かもしれません。ちなみにアメリカでは労働者の1/3が何らかの非営利組織で働いているそうです。
by nonukes | 2012-11-11 18:19 | 反原発オヤジの子育て記 | Comments(0)

「ぼくはお金を使わずに生きることにした」を読んで感じたこと

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お金を使わない生活」は楽しく、自分も社会も変えられる!?
小坂正則

11月10日の朝日新聞に『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(紀伊國屋書店)を紹介する記事が目にとまりました。私はその日の内にジュンク堂書店でこの本を買い求め、一気に読みました。著者のマーク・ボイル(29歳)はアイルランド出身の青年でイギリス西部にて、全くお金を使わずに生活をするという実験を2008年の11月から1年間行ったのです。彼はお金がないからそんな生活をしたわけではありません。ベジタリアンの彼は大学で経営学と経済学を学び、大学生活最後の学期にインドのマハトマ・ガンジーについての本を読んで大きな影響を受けたそうです。「世界を変えたければ、まず、自分がその変化になりなさい。…たとえ1人きりの少数派であろうとも、何百万の仲間がいようとも」という一節を読んでも、悲しいかな、世界をどう変えたいのかが、そのころの自分にはまだ分からなかったそうです。だから、オーガニック食品を扱う会社は倫理的だと思い、大学卒業後はオーガニックの食品会社でサラリーマンをやっていたそうです。しかし、有機食品を扱う会社でも大量生産・大量消費の流通システムは、彼が思っていた生態系に配慮した持続可能性を体現した楽園では決してなかったのです。お金が全てを支配して、お金がなければ幸せにもなれない社会の根源に疑問を持ったのでしょう。
ある晩、親友と話していました。搾取工場、環境破壊、工場畜産、資源争奪戦などの世界的な問題に話題が及んだ。「僕らが一生をかけて取り組むべきはどの問題だろう」と。「しかし、僕らが取り組んだとしてもたいした貢献などできない」そこで彼は気づいたのです。病んでいるこれらの諸症状が、それまで考えていたように互いに無関係ではなくて、ある大きな原因を共有していることに。その原因とは、消費者と消費される物との断絶である。われわれが皆、食べ物を自分で育てなければならなかったら、その三分の一を無駄にするなんてことはしないだろおう。(イギリスは食品の1/3を廃棄している)…人びとが無意識に行っている日常的な買い物は、ずいぶんと破壊的だ。…お金という道具が生まれた瞬間からすべてが変わったのだ。(著書より抜粋)
つまり、「社会的な不公平や環境破壊に心を痛め、行動を起こしたいと思っていても、自分が生きるためにお金を稼ぐことが、新たな社会的不公平や環境破壊を生み出す加害者になってしまうのではないか」と考えたのでしょう。だから、そこから逃れるための1つの実験として「お金を使わない生活」を試みたのです。

お金を使わない生活で得られる貴重な体験

彼は決して耐乏生活を送ったわけではありません。お金のない生活に入る前にパソコンとネット環境やトレーラーハウスなどは借りたり、もらったりして準備をしました。それに太陽光パネルとバッテリーもそろえて、ネットで外の世界と交流ができる環境を準備したのです。しかし、彼は環境負荷を与えることはしないと決めていました。化石燃料は使わない。人からもらったり、交換するのはOK。私のために車で送って行ってくれるのはダメ。しかし、ついでに車に乗せてもらうことはOK。どうせ化石燃料を使い、ついでに私も乗せてもらうのは自分のために化石燃料を余計に使うわけではないからと。インクや紙も自分で作ったそうです。また、イギリスのスーパーでは賞味期限の過ぎた食品はスーパーの前のゴミ箱に捨てるそうですが、それをあさって、大量の食べ物を確保し、その帰りに友人に食べ物を配って回ったりしたそうです。そして「必要なものは他人とシェアする」という方法で調理器具や無料の食材を集めてきて豪華な料理の無料パーティーも開催しています。それに世界中のマスコミによる取材合戦にさらされたそうです。興味本位の取材からBBC放送の実況中継まであったのです。
彼は川の水を浴びて風呂代わりにしたり、野原に穴を掘って、そこにウンコをして、拾ってきた新聞紙でお尻を拭いて埋め戻したり、食事は野草やキノコに家庭菜園でできた野菜に、森から拾ってきた薪を燃料にロケットストーブで料理をし、薪ストーブで暖を取る生活を続けるのです。そこでは周囲の友人や見ず知らずの人に優しくされたり、また、自分がお返しにお手伝いをすることで、コミュニケーションが生まれ、人間的な暖かな触れ合いや愛情をたくさんもらうことができたのです。しかし、失うものもあったようです。「恋人の元へいつでも行けるわけではないので、恋人との間に気まずい雰囲気になってしまい、とうとう別れてしまった」というところでは、私まで自分のことのように悲しくなってしまいました。でも、彼は1年間「お金を使わない生活」をやり遂げて、体験記を出版します。その印税で「地域社会の中での自給」をめざすために土地を購入し、現在、仲間と一緒にコミュニティーを作る活動をしているそうです。

お金に呪縛される生活から少しずつでも逃れて自分を取り戻したい

私はこの本を手にとって読み進むうちに、胸がわくわくして来ました。私も筆者と一緒に、これから1年間お金を使わない生活をするかのような錯覚に陥ったのです。また、お金の持っている社会的弊害を彼は見抜いていることに対しても感動しました。
「金利が社会の元凶である」というミヒャエル・エンデは「お金には交換手段としての側面と資本や投資としての側面という2つの異なった目的を持っている」といい、資本や投資としてもお金が問題なのだといいました。著者も「負債として創造されるお金」に問題があるといいます。銀行にお金を預けたら、銀行はその9割を貸し付けます。そして貸し出し金利で利益を得ます。しかし、預けた預金者が引き出すことがないことを前提にして銀行はお金をどんどん貸し出し続けるのです。また、投機などはもっとひどいもので、私は綿花や小麦など持っていないにもかかわらず、将来買い戻するから、いま架空の売りの約束をするということが、商品先物取引なのですが、実際の資金の10倍も100倍にも拡大して、それが現実のお金以上に流通するのです。また、クレジットやローンも同じ現象を生みます。お金がないのに消費だけを先に行い、将来返済すという約束の下、つまり無一文の者でも将来の富を先食いできるのです。このようなお金にまつわるゲームのような経済取引が人びとを支配して、富と貧困という格差をもたらします。「米国では1%の金持ちと99%の貧乏人がいる」といわれるように一部の金持ちのマネーゲームが地球上の経済対立や紛争や戦争の原因になるのです。
そこから私たちがどうやって逃れることができるのか。マークのように1円もお金を使わないことにこしたことはないのですが、そんな極端なことはなかなかできませんから、家庭菜園や物々交換や友達とシェアするなどの生活で、できるだけお金を使わないようにすることは随分社会的拘束から逃れられるのではないでしょうか。
自殺をする国民が毎年3万人以上この国にはいます。その中には仕事やお金を苦にして自殺する人も多数いることでしょう。「お金に振り回されて生きる人生っていったい何なんだろう」と悲しくなってしまします。「そんなにお金がなくてもこころ安らかに人生を送ることができる方が幸せなのではないか」と私はやせ我慢ではなく、そう思うようになりました。
そして「お金を使わない生活」は環境負荷を与えずに、自分を苦しめる呪縛から逃れる1つの方法ではないかと思うようになったのです。(つづく)
by nonukes | 2012-11-11 18:03 | 反原発オヤジの子育て記 | Comments(0)

反原発子育て記の3「原発を支えてきた“もの”は実は自分の心の中にあったりして…」

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原発を支えてきた“もの”は実は自分の心の中にあったりして…
小坂正則
大分から目と鼻の先にある伊方原発から反原発運動を始める

 私が川崎の郵便局から大分の郵便局に転勤になって、故郷に帰ってきたのが1985年の秋でした。神奈川に10年あまり住んで、ここで子どもたちを育てるのはかわいそうだと思ったのです。土や自然に触れる子育てをしたいという妻の希望もありました。
 大分に帰って、半年あまり経った86年4月26日にチェルノブイリ原発事故が起こり、8000キロも離れた日本にも放射能が降ってきたのです。ところが、チェルノブイリ事故の全貌がまだ分かっていない5月のはじめに、海を隔てた四国、愛媛県の伊方原発3号機の増設許可が国から下りたのです。チェルノブイリ原発事故以後、最初に建設許可が降りた原発です。伊方原発は私の住んでいる大分市からはわずか70キロ足らずです。「チェルノブイリ原発事故のような大事故が起これば死の街になる」という不安に駆られました。「私の住んでいる大分市の目と鼻の先にある原発の建設に、私たちは何の異議も唱えるすでがない」ということにやり場のない憤りを感じたものです。しかも伊方原発建設反対運動は住民ぐるみの激しい戦いを繰り広げてきたというのです。
 私たちが伊方原発見学と現地の反対派の皆さんを訪ねたのが86年の夏だったのですが、そこで反対派の人びとから「これまで16年間たたかってきたが大分から来てくれたのはあなた方が初めてだ」と言われたのです。それほど県境を越えれば原発反対運動は成り立ち得なかったのです。しかしチェルノブイリ事故が国境を越えて日本まで放射能が飛んできたのですから、原発反対運動が分断されて来た状況は86年からは、私たち自身で越えなければならない課題だったのです。大分では「伊方原発に反対する大分市民の会」という伊方原発に反対する市民グループが、ツアーに参加した13名の仲間により始まりました。
 その2年後に伊方原発出力調整実験反対運動が起こり、大分の主婦の呼びかけで全国から5000人以上の市民が高松にある四国電力本店へ押しかけてたたかわれました。その当時には大分には20団体を超す反原発の市民団体がありました。しかし、4年後の1993年には、それまであった数え切れないほどの反原発団体も1つか2つにまで減ってしまいました。市民運動を続けるということは並々ならぬエネルギーが必要ですし、それを支え続ける人びとの大変な時間とお金の犠牲と熱意がなければ出来ないことです。それに何も法律に違反するようなことを一切やっていないにもかかわらず、反原発運動をやっている者は過激派のレッテルを貼られて、陰に日に様々な嫌がらせを受けてきました。だから、気軽に空き缶拾いをするボランティア団体のような多くの市民が気軽に参加する運動には決して広がらないのです。

お金の恐ろしさを伊方原発反対派の方々に教えられた

 私たちの反原発・脱原発運動に対して、私に好意的な人からもよくこのようなことを言われたものです。「反原発運動は普通の人には近寄りがたい」とか「電力会社と対立ではなく話し合う姿勢が大事」などです。だからというわけでもないのですが、私はこれまで26年間、出来る限り明るく、楽しそうに振る舞って来ました。しかし、考えてみてください。私たちはこれまで電力会社との話し合いを拒否したことは一度もありません。向こうは常に拒否しますが。また電力化会社は私たちから一方的に取った電気料金で稼いだお金を湯水のように使い、酒や女と札束で反対派を切り崩し、警察やマスコミまで味方に付けて“やりたい放題”をやって来たのです。反対派は弱小組織で、しかも身銭を切って反対を続けてきたのですから、最初から勝ち目などない抵抗運動だったのです。それが伊方原発反対運動は42年、上関原発反対運動は29年というように長期間続いたということは奇跡だと言ってもいいでしょう。それほどの長い年月、現地の方々は人生のすべてを捧げてたたかってこられたのです。伊方原発反対八西連絡協議会代表の広野房一さんが私に話してくれたことがあります。広野さんは「現地の反対運動は小さくなることはあっても大きくなることはない。1円でも電力会社からお金をもらえば二度と反対はできない」といいました。そこで私は「反対派を寝返って推進派に行ってしまった方も、チェルノブイリの事故が起こって、やはり原発は怖いから反対しようと思う人もいるかもしれないではないですか。だからそんな人もまた反対派に受け入れてやればいいじゃないですか」と言うと、広野さんは「私たち反対派は帰ってくるのを拒みはしない。しかし、彼ら自身がやましい思いがあるから私たちを批判して二度と帰っては来ない。お金というものはそれほど怖いものなんだよ」と静かに自分に言い聞かせるように話してくれました。

自主規制・自己規制の呪縛から解き放たれよう  

 なぜこれまで、原発をめぐる真実が多くの国民に届かなかったのでしょうか。
 3.11フクシマ以後、マスコミはこれまで何も知らなかったかのように原発村社会のウソを暴いていますが、住民説明会で電力会社の動員や、やらせ発言などは現場の新聞記者も私たちもみんな知っている公然の事実でした。核燃料サイクルのあり得ないウランのリサイクルも、モックス燃料が普通の原発の燃料よりも1.5倍高くて、しかもモックス燃料の再処理のめどもないのに普通の原発で燃やす矛盾を。高レベル廃棄物を埋捨てる場所など日本中どこにもないことを。原発の電気が5円や6円などではなくて、実は火力よりも高いことを。これらすべてのことを私たちは3.11以前から知っていたし、その真実を訴えていました。しかし、それを自主規制の名の下に報道しなかったのはNHKを頂点としたマスコミ各社なのです。 また、良心的なごく少数の反対派の学者の話ではなく、御用学者やNHKの解説を信じた多くの「思考停止した国民」の責任も大きいかもしれません。いくら私たちが大きな声で訴えても、声が大きければ大きいほど異常な人たちのように見えて、思考停止した人びとの耳には聞こえなかったのです。もちろん現場の記者は私たちのことを積極的に書いてくれましたし、良心的な記者もたくさんいました。でもマスコミの上層部や経営者はみな原発村の一員だったのです。
 このようなことがありました。私の職場の郵便局の同僚に聞いた話です。彼の近くに住む知り合いの警察官から「小坂を知っているか。やつは虫も殺さないような顔をしているが夜な夜な人殺しをしている過激派なのだ」と。また、私が昭和天皇が死去して大嘗祭とかいう祭典をやっている時、「原発いらない人びと」という参院選の総括会議で青森に年休をとって参加していたら、組合事務所に公安職員が来て「小坂が大嘗祭でミサイルを発射するかもしれないのでどこに行ったか調べている」と組合幹部に聞いてきたというのです。組合に行くぐらいだから、当局には真っ先に聞きに行ってるでしょう。私は幸いにも公務員だったので、正当な理由がなければ職場を首にはされませんでしたが、中小企業の社員だったら「過激派の疑いがある」だけで、私はとっくの昔に首になっていたでしょう。私への嫌がらせは松下さんに比べれば屁でもないのですが、こんなこともありました。
 私の恩師である松下竜一氏は赤軍派の容疑で1988年に家宅捜査を受けたことがありました。原発へのフレームアップではありませんが、松下竜一氏を地域から孤立させ作家としての社会的地位を抹殺しようと仕組んだ権力弾圧でした。もちろん家宅捜査が違法・不当であるという国家賠償裁判で勝利しましたが、マスコミによって流された過激派のレッテルはそう簡単には晴れなかったと思います。
 このような連中を私は「原発マフィア」と呼んでいるのですが、彼らは原発反対派は過激派だというキャンペーンを流し続けてきました。さすがに今日ほどウソがバレてしまっては、昔のように公然と違法なフレームアップはしないかもしれないのですが。そんな支配者のプロパガンダを支えていたのは国民の自主規制・自己規制だと思います。普通の市民は、私たちのように「会社を首になりさえしなければ出世などどうでもいい」という人は極少数でしょう。でも、このようなフレームアップが逆に「小坂のように警察に嫌がらせを受けるのは怖い」という自主規制の効果を生むのかもしれないのですから、複雑な思いがします。だから私はこれまであまり、この事実は語ってきませんでした。「反原発運動をやるにはそこまで覚悟がいるのか」と、思われたら誰も仲間になってくれないと思ったからです。
 でもこれらの私たちが思い込んでいる「あたりまえ」を一度疑って見る必要を私は強く感じます。「私の常識が実は誰かにすり込まれたウソではないか」と疑って見るのです。「原発がなければ電気が足りない」とか、「原発から撤退したら企業が日本から逃げ出してしまう」とか「原発をすべて止めたら電気料金が今の2倍になる」などすべてがウソなのです。
私たちの脱原発運動は、このような「あなたが思っている「事実」をまずは疑って見る」ことから始まるのではないでしょうか。自分の頭で考えて、自分で学び、自分の言葉で話すことで、誰かにすり込まれた「真実」が少しずつ剥がれて、もう一つの真実を発見できるのではないかと私は考えています。

緑の政治と文化を取り戻そう

 そんな自分に向き合ってきた人びとが3.11以後、私の周りにはたくさん生まれています。 みんな自分らしい暮らしを求めています。無理して人と同じことをする必要などないことに気づいた人びとです。学校に行ったらいじめで殺されるくらいなら、無理して学校になんか行かなくてもいいし、会社で鬱にさせられるなら、ドロップアウトして半農半Xの楽しい暮らしだってあるのです。私は脱原発と脱経済成長の社会をめざして、緑の生活を取り戻す暮らしを、私は周りの仲間と一緒に模索しています。背伸びせずに身の丈にあった暮らしが、いつか原発に頼らない社会をつくるということを信じているからです。人はみなそれぞれ違うのですから、その違いを大切にしておつきあいをすることが一番大事なことではないでしょうか。他人を気にしている自分の心の中にこそ、あなたが変われない原因があるのではないでしょうか。耳を閉じているあなたの耳が開いてくれることを私は切に願っています。だって、フクシマを二度と繰り返すわけにはいかないじゃないですか。


一番下の写真の川の向こう側に見える畑は2004年に宮崎県綾町に行く途中で見た武者小路実篤が作った「新しき村」です。
Wikipediaより
武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、1885年(明治18年)5月12日 - 1976年(昭和51年)4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇 ... 社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設した。
by nonukes | 2012-09-10 20:53 | 反原発オヤジの子育て記 | Comments(0)

反原発オヤジのハチャメチャ子育て記2

反原発オヤジのハチャメチャ子育て記2
小坂正則2012年7月21日

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私は原稿を書きたいという衝動を抑えられない

実は、私が生まれて初めて書籍「市民電力会社をつくろう」なるものを出せたのは、偶然のたまものなのですが、そのときにはこれまで書きためていたミニコミ誌の原稿と、私の友人が出しているミニコミ誌への寄稿原稿などを洗いざらい出してきて、その中から使えそうなものを、初の本の原稿に試みようとしたのです。しかし、テーマに関係ない多くの原稿は当然にもボツになりました。私は「あの原稿もボツですか…」と、ずいぶん寂しい思いもしたのです。自分の身内を切り捨てるような気分になるものですね。しかし、現実は冷酷です。だって、私の出してもらった書籍は自費出版ではないのです。だから売れなかったら、いえ、売れるはずもないのですが、赤字分は出版社がかぶらなければならないのです。だから私ら素人は出してもらうだけで幸せなのです。
この原稿を書いている理由は「書籍のボツ原稿を日の目に出してやりたい」からなのです。つまり、そこでボツになった原稿に新たな原稿を付け足して、次の書籍を書き上げたいという衝動に駆られてしまったから、こうして原稿を書いているのです。
私の初書籍は昨年の4月から11月頃まで半年かかってどうにか書き上げたのですが、その中には昔の原稿を書き直したり、「ここは書き足してください」と、編集者に言われたところを継ぎ足したりの作業が続きました。そのため毎日夜遅くまで机に向かって書き続けたのですが、実にこの苦行のような文章を書くという作業が、毎日毎日繰り返していくうちに、だんだん楽しくなってくるのですから不思議です。何でこんなに楽しいのかというと、「私には毎日書かなければならない仕事がある」ということで、なにやら使命感みたいな感情が心の中に湧き起こって来るのです。
私の友人に杵築市の大熊さんという方がいます。彼は「熊さんのとり小屋日記」というコラムを朝日新聞の大分版に1年か2年書いて、それを出版しました。かれは「連載が終わった後、心に大きな穴があいたような気分に陥った」と私に話してくれました。その気分私も分かるような気がします。次を書きたくなるのでしょうね。しかし、原稿を書きためたからといっても、どこかの出版社が本を出してくれるという当てがあるわけでは決してありませんが。それでもレントゲンの話はみなさんおもしろいと言ってくれます。あれだけでは本にはならないし、もっともっと背骨になるような話を書かなければ、あれは単なるエピソードですから。でも、学校やいわゆる「教育者」といわれる人たちの本質を射抜いてはいますがね。

下手くそな文章でも人の心をつかむことはできる

実は自慢ではありませんが、私は文章を書くのが苦手でへたくそです。それに私の周りの仲間は文章がうまい人がたくさんいます。私が出しているミニコミ誌「つゆくさ通信」の常連さんの諫山さんや甲斐さんや大原さんなどは無駄な表現もなくシンプルで気品のなる文章を書きます。それに比べたら私は形容詞が多くて、表現もオーバーで第一語彙が少なくて、へたくそなので、彼らの原稿を読んだ後に自分の原稿を読んだら落ち込んでしまいます。
「それなのに何で書くの?」と、よく聞かれます。実はそれには深い理由があるのです。「私は周りの人に訴えたいのです」多くの方に私の思いを伝えたいのです。この思いだけは誰にも負けません。私は原発をとめたいという思いと、市民電力会社を作りたいという思いだけは誰にも負けないという自負があるから、「市民電力会社をつくろう」という本を出すことができたのです。文法などは後でどうにでも直せばいいのです。熱い思いがなければ人の心を動かすことはできません。文章がうまくても、それだけでは人の心を鷲掴みにはできません。だから私は未だに恥をさらすようなへたくそな文章をだらだらと書いているのです。
よく私の文章は「スピード感がある」とか「おもしろい」とか言われることがあります。それだけで私は十分だと思っています。私の周りには、私の文法を修正してくれるやさしい友人がたくさんいるのです。そんな友人がいなかったら私はこうしてみなさんに文章を見せるなんてことはできないでしょう。(この文章にはまだ誰も手を加えてはいませんが)

私は子どもを育てた話を書きたくなったのです

私はこれまで「川崎でゴミ収集の分別収集をやらせる」きっかけになるような運動をやったり、「大分市小学校5年生のレントゲン撮影」をやめさせたりしました。また、「万引きをやった子どもとどう接した」か、とか「非行少年と楽しく畑仕事をやった」ときのことなどもずいぶん私には楽しい思い出です。そしてなによりも「学校という巨大な怪物が子どもたちを押し殺している」という現実に何とかメスを入れたいのです。「学校など楽しくなかったらいかなくていい」のです。そんな当たり前のことが当たり前にできる社会にしたいのです。
最初にも書きましたが、このような閉塞情況の日本社会に閉じこめられている若者や子どもたちに夢を持って生きていけるような術を私なりに彼らに与えたいのです。そしてこの日本をもうちょと子どもたち(それと大人も)が暮らしやすいように作り替えていきたいのです。だから、1つは教育から変えなければならないと思っています。
そこで昨日、私の元妻に久しぶりに電話をしました。「実は私の子育ての話を本にしたいんだけどいいかな。あなたのことも当然書かなければならないし、私よりもあなたの方が子育ての中心だったのだから、あなたの了解をもらわないといけないと思ってね」と。すると彼女は「私はいいけど、子どもたちには了解を取ってね。1人でもだめといったら書いてはだめよ」と。「原稿はもちろんあなたには見せるし、子どもたちには了解を取るよ」と私は説明しました。(つづく)

私の書いた著書「市民電力会社をつくろう」も販売中です
by nonukes | 2012-07-21 16:46 | 反原発オヤジの子育て記 | Comments(3)

なぜ私が子育て記を書こうと思い立ったのか…

反原発オヤジのハチャメチャ子育て記 小坂正則
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なぜ私が子育て記を書こうと思い立ったのか

こんなタイトルの話を書くというのは、日々の記録のはずなので、しかもリアルタイムに書かなければ臨場感が出ないのでしょうが、年寄りの自慢話を、しかも20年も前のことを書いてもしょうがないと、みなさんから批判されることを覚悟で、昔を思い出しながら書いていこうと思うのです。
何で私のような、もう60歳を間近な爺さんが、それも子育てどころか、家庭内別居を2年ほど続けて、その後離婚した。子どもを育てたと言うには、どう見ても失格の部類に属する男が、何を偉そうなことを言うのかと、これまた批判されるかもしれませんが、やはり、書かずにはいられない理由があるのです。
それは、混沌とした現在社会で、将来に明るい展望や夢を子どもたちが持てないような時代に、子どもたちは何を夢見て、何を目標にして生きたらいいのかを見失っているように思えてならないのと、親たちも自分の将来に不安こそあれ、子供と一緒に夢を語れる時代ではなくなっているから、そのたこつぼのような深みに社会全体がはまってしまっている情況の中で、そこからどうすれば抜け出せるかを私なりに考えてみたかったからです。もちろん「私のような中途半端な人間が偉そうに子育て論や教育論や人生論を語るな」と、これまたおしかりを受けるかもしれませんが、私にはこれだけは自慢できることがあるのです。それはずいぶん子どもたちへの接し方を間違ったりしたのですが、彼らとは真正面から真剣に向き合って来たこと。子どもを守るのは学校や社会ではなく、私たち両親しかいないと常に思っていたからです。そして昔から言われることわざの通り「子どもは親の背中を見て育つ」といことを常に頭に入れて、「私の生き方が子どもへの教育だ」と、常に思って行動していたからです。だから私や妻が一生懸命に生きることが何よりも大切なことで、子どもはほっといても自然に育つものだと思っていました。

 反原発運動の家庭は女性が強い

私たちの世代がちょうど現代のいわゆる男女平等社会の走りだと思います。だから料理を作ったり、洗濯をしたり、子育てを一緒にやったりすることにほとんど違和感のない世代なのだと思います。特に反原発運動を若いときから夫婦で一緒にやってきたという、私の仲間はたいていの家庭が妻の方が強い家庭が大半でした。夫婦一緒に反原発運動をやっている仲間たちはどこも妻がリーダーシップを取っていて、男は後からついてくるというような関係でしたので、女性の方が強いという力関係はあたりまえでした。しかし、妻だけが反原発運動をやっていて亭主は無関心という家庭は旧態依然の男社会のようでしたのでそんな方は私たちを見て「亭主がそこまでしてくれる家庭なんて夢のようでうらやましい」とよく話していたことを覚えています。
私たちの仲間が27年前のチェルノブイリ原発事故後、大分で始めた反原発運動の特徴として、まず、ほとんどが30代前半の若者で、しかも夫婦一緒に小さな子どもを抱えての運動だったということです。しかも女性が主導権を握っていたことと、亭主の職業は公務員か百姓が大半でした。なぜ公務員と百姓かというと、それには理由がありました。普通のサラリーマンは市民運動などしていたら会社を首になります。日本の会社には日本国憲法など存在しません。社長の気にくわない社員は首にされてしまいます。だから当時の日本では公務員か自営業者、それもお客様のいない自由な百姓か労働三権が保証された公務員しか市民運動はできなかったのでしょう。もちろん公務員だから何でも自由にできたわけではありません。それこそ出世は完全に棒に振らなければ運動などできません。まあ、公務員の大半は出世などしたいとは思っていない者の方が多いのですが。
さて、私の家庭の場合はどうかと聞かれたらちょっと微妙でしたね。確かに彼女も強かったのですが、私も主義主張ははっきりしていたので、互いにぶつかってはいたようです。
私たちの運動の特徴として、みな貧しかったことが挙げられます。現代の脱原発運動も昔よりはもっと貧しいようですが、当時の市民運動も大変貧しい仲間が大半でした。それも、小さな子どもを抱えた夫婦が一緒に運動をするのですから、合宿など計画するときはたいてい1人千円から1500円が相場でした。家族全員で5000円くらいです。泊まって食事して5000円くらいです。しかし、このような格安合宿は大分だけのようでした。
90年代に別府の日本山妙法寺で上関の方々をお呼びして合宿をしたときですが、その時は確か飲んで食って泊まって1人千円だったと思います。お寺ですから会場費はゼロ。酒は持ち寄り、料理もみんなで作るので千円で十分余るのです。余ったお金はお寺へお布施として置いて帰ったように思います。そんな格安合宿を私たちは「大分方式」と名付けていました。
そしてもう1つ大分方式の合宿には他にはない特徴があります。それは宴会の主役が女性だということです。男どもは料理の用意から後かたづけまで裏方でせっせと自分の役目を果たしていたのです。もちろん全員ではありませんが、私などはたいてい乾杯をしたあとは厨房に入って料理やつまみの用意をしたものです。わたしは有能な事務局長といわれていましたので、会計と宴会の手配など裏方に徹していました。もちろん女性も少しは手伝ってくれるのですが、どういうわけか男がふんぞり返って酒を飲むという場面はほとんどありませんでした。これは反原発運動の文化的な側面としてとても重要なことだと思います。そしてもう1つの特徴として、反原発運動は生協運動を抜きには語れないとも思います。食べ物の安全を求める母親の放射能汚染の不安や原発事故の恐ろしさが生協という組織を通じて母親の反原発運動を形成していったということだと思います。
私は川崎では生活クラブ生協と一緒に石けん運動をやっていたのですが、大分では直接生協に関わっていはいなかったので、そのへんのことはほとんど分かりませんが、生協が反原発運動を支えていたといっても決して言い過ぎではないと思います。

夫婦の関係がそのまま子どもとの関係を形作る

家族が社会の中で一番小さな組織です。だから夫婦関係がそのまま親子関係を形作るのだと思います。夫婦が絶対服従関係だったら、親子関係も絶対服従関係になりますよね。だから夫婦が平等な関係なら親子関係でも子どもの人権を守る親子対等な関係が成り立つのかなと思います。でも、親の特権を振りかざして、子どもたちには、ずいぶん私も専制君主ぶりを発揮したようには思いますが。そんな反省がないわけではありません。
でも、私は誰にも恥じることはなく自分の意志に従って生きて来ました。きっと私の子どもたちは「お前のオヤジは変わってるからな」とか「お前のところの両親は変わってる」などと友達にいわれたことだと思います。だって、小学校の体操服を私の妻は買うのを嫌って手作りの体操服を持たせていました。ところが短パンの横に赤と青の線が2本入っていたのですがスーパーで買ってきた体操服には線が入っていません。学校の先生から「線がないので線を付けてもらえませんか。もしくは学校指定の体操服を買ってもらえませんか」と連絡帳か電話かは覚えていませんが連絡があったようです。もしくは子どもにそのように親に云えと伝言したのかもしれません。すると彼女は赤と青のマジックを取り出して二本線を引いたのです。これには私も驚いてしまいました。「あんたさすがやねえ」と、私は彼女を称えたのですが、子どもが寝た後、「子どもがいじめられたり、ほかの子と違う服装に嫌そうだったら、そこまでしいない方がいいかもよ」と、忠告したことを覚えています。彼女は「あの子は大丈夫。そんな小さなことに動じる子どもではない」とキッパリ。確かに子どもは運動会でもマジックのインクが滲んだみんなと微妙に違う体操服を着て楽しそうに走り回っていました。なぜ、体操服を着せなかったのかと云えば、彼女たちはちょうどそのころ制服と男子の丸坊主に反対する運動をやっていたからだと思います。子どもながらにも、うちの子は「制服は何か知らないけど悪いんだ」と思っていたのでしょう。そういった意味では我が家版「偏向教育=まともな教育」を実施していたようです。
だから、学校を休ませることに何の抵抗もありませんでした。冬になると、鳥取の大山にスキーに毎年行っていたのですが、土曜日の夜に大分を出て、日曜日から火曜日までスキーを楽しんで水曜日に帰る日程でしたので、学校は休ませました。連絡帳に「スキーに行くので休みます」と、書くと、先生から「いいわね楽しんで来てね」などと書いていました。そのほかにも私はことあるごとに「今日は天気がいいから学校休んで父ちゃんと一緒に遊ぼうや」と、挑発するのですが、残念ながら私の挑発には誰も乗ってはくれずに「父ちゃんと遊んでたらバカになるから学校行くわ」と言って、ほとんど真面目に学校に行っていましたが。(つづく)

「市民電力会社をつくろう」の著書の紹介とNPOのHPへお越しください
by nonukes | 2012-07-20 12:28 | 反原発オヤジの子育て記 | Comments(2)

大分市小学5年生のレントゲン検診をやめさせたたたかいの記録です

うちの子はレントゲンを受けませんつゆくさ通信91年7月号

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以下の記録はミニコミ誌「つゆくさ通信」に書いた原稿です。(実は私の著書のボツ原稿でもあるのですが)子どもの生命を守るために夫婦で学校とたたかった記録です。こどものためなら学校であろうが教育委員会であろうが、どこでも行って喧嘩してきた夫婦の物語です。だからと言うわけではありませんが私たちの子どもには「非行」も「いじめ」もなかったと思います。(小坂正則) 

一九九一年五月二十三日(土)、三男の新一年生の学級通信を受け取った私の妻が「アンタ大変よ。月曜日にレントゲン検診があると書いているわよ。どうする受けさせるの」と。私は「えーッ。大分でもレントゲンまだやってるんだ」と。私はレントゲンを自分の娘には受けさせたくないと教育委員会などとケンカした福岡の地蔵原さんが書いた「なぜレントゲン検診がいけないのか」わかりやすく書いた本がある」の 地蔵原さんに「大分ではレントゲンやってないみたいですよ」と言ったばっかりなのに。
妻は「今まで上の子の時は見過ごしていたのよ。ちゃんとやってるよ」と。私は「そりゃあレントゲンを受けさせるわけにはいかんわ。オマエ月曜日に学校に行って、受けさせないといって来てや」と。妻は「何でも子どものことは私ばっかりに押しつけて、ちょっとは父親らしいことしたらどう」と。その一言が一番恐ろしかった。妻から「いつもあなたは自分の好きなことばっかりして、子どものことはちっとも構ってやらない」と不平ばかり言われているからだ。おまけに何を隠そう、私は大の学校嫌い。PTAなんか行くだけで吐き気がする。運動会なども、どれが自分の子かも分からんラッシュアワーのような人混みの校庭で、土埃にまみれたオニギリ食うのに、どこが楽しいのか分からない。
第一、先生なんてやつが根っから好かん。何か建前ばかりの人生過ごしているような人と子どものことについて話す話題などない。(見合いの席で話す議題がないと言ってさっさと帰った私の友人のkさんの心境が分かる気がする)

たまには親らしいことの一つでもやっとくか

というわけで、翌月曜日の朝、目が覚めると同時に決心した。どうせ私が行かなければ、妻に「あんたはいうこととやることが全く違う」とか何とか。一生言われるのが分かっているからだ。私は小さな声で「あんたも一緒に行ってくれる」と奥様にお願いして、夫婦2人でいざ、西の台小学校へ乗り込むことあいなった。
まず担任の先生を探して、「実は今日のレントゲン検診のことでお願いがあって、校長先生にお会いしたいのですが」と。優しそうな感じの先生は「レントゲン検診に何か問題でもあるのですか」とビックリした様子。
校長室に通されて、第一印象が悪かった。覚えたてのワープロ君を大事そうになぜてるところに「朝からうるさい夫婦が来たものだ」といった、モロ嫌そうな顔をこっちに向けて、「さて、お話とは何ですか」ときた。
私は自己紹介をして、「いつも子どもがお世話になっています」なんて、心にもないことを言って「実は本日実施されるレントゲン検診をうちの子には受けさせないでほしいのです」と。校長は「レントゲンを受けると何かまずいことでもあるのですか」と。私は「ええ、実に問題があります。日本人の放射能被曝線許容量は年間100ミリレムと決められていますが、本日行われるレントゲン間接撮影で、実に三〇ミリレム程度の被曝を受けるのです。医療行為でもないのに無用なレントゲンの被曝を出来るだけ避けさせたいのです。このような全児童を対象にしたレントゲン間接撮影などは欧米では行われていません」と。
校長は「あなたは無用だと申しますが、これは保険衛生法によって定められた検査ですので、私の一存で「受けなくていい」なんて決められませんよ。そんなこと認めたら私が校長を首になってしまいます」「つまり私にはあなたの申し出を認める権限はありまあせん。教育委員会か保健所に申し出てください」と。
私は「もちろん私もそう思っていますが、今日の今から検診があるので子どもがレントゲン受けた後に教育委員会と議論しても遅いですよね。だから今日のところは緊急避難措置として一時的に受けさせないでもらいたいのです」と。
それに対して校長は「もしレントゲンが問題ならほかの父母などからも言ってくるはずだが、そんなこと言ってきたのはあなた方だけだ」などなど。「あなた方は自分の子どもが被曝をしなければそれでいいのか」とか、「厚生省や文部省でも問題があればそんなレントゲンなどさせるわけがない」等々。私はムカッきて、「インフルエンザでも危険だから止めるべきだという声が随分前からあったが、行政や教育委員会の重い腰を上げるには何十年という歳月がかかったではありませんか。それまでには何人もの子どもが命を落としたり、失明したりしているのですよ。このレントゲン被曝の問題も改善されるまでには長い年月がかかると思います」と。校長は「昔は副作用で死んだりすることはなかった。近頃の子どもは、インフルエンザの副作用だの、アトピーだの、全くだらしがない」と。このバカ校長は本末転倒なことを口走るのだ。怒りが頂点に達した私は「何を言ってるのですか校長先生。インフルエンザの後遺症を訴える裁判などは何十年も前からありますよ。あなたが知らないだけです。前から学者や医者の間では問題視されていたのです。制度というものは、そのようにゆっくりとしか動かないことはあなたも十分ご存じでしょう」と。校長はムッとした顔つきで「とりあえず今日のところはレントゲン検診はいたしません。検診を強制すれば混乱を生じる可能性があるからです。しかし、今日あなたが申し出た一部始終は教育委員会へ報告します。それでもいいんですね」と。
私は「ぜひ、そうしてください。私もしかるべき場所で十分議論させて頂きます。学者や医者にも議論に入ってもらって、活発な議論が行われることが私の願いですから」ということで第一のハードルは越えることが出来た。保健所も教育委員会もその後、何も言ってはこないが。

小学校5年生にもレントゲン検診(91年12月の原稿より)

 五月の「レントゲン受けません」騒動からアッという間に半年が過ぎた。「教育委員会は何も言ってこないなあ」何て、のんびりと構えていたところに、この秋、突然降って湧いたような事件が起きたのだ。
なっなんと5年生の長男にもこの秋にレントゲン検診があるというのだ。これも3男と同じような学級通信に載っていたのだ。今度は1週間前に知ったことが随分違った結果を招いた。九一年十月十九日の学級通信に小さく「十月二十八日の月曜日にレントゲン撮影」と書いてあったからさあ大変。さっそく、二十一日の月曜日に休みを取って、市教委に質問に行った。①なぜ、大分市だけが五年生にレントゲン撮影をやるのか。②その医学的根拠と法律的根拠はどこにあるのか。③どのようにすればうけなくていいのか。それと今年の春に受けなかった三男のことはどうなっているのかも問いただした。
体育保健課の係長と主事さんは、狼狽した様子で「自分たちが担当する前から決まっているので、なぜ五年生だけにレントゲンを行っているのかよく分からない」と。「この春の三男のことは報告にない」と。でも、後からそれはまずいと思ったのか「欠席扱いです」という回答が電話であった。何とも大分市教育委員会の対応は腑に落ちない。私はWHOの勧告の話や放射線被曝の許容量の話などしてやったが、担当係長は「大分県は結核の発生率が高いので五年生もやる必要がある」や「脊椎異常を発見するためにも欠かせない」と熱心に反論した。
「それなら何で大分市だけがやって、別府市や中津市ではレントゲンを受けないのか」と追求したら、「大分は予算がたくさんあるから出来るのです」と、暗によそは貧乏だから子どもの健康に銭を出していないといわんばかりの言い方にムカッと来た。隣に座っている女性主事は熱心にメモを取って、私の話を聞いてくれたので「彼女は少しは分かってくれたかな」と淡い期待なんかして市教委を後にした。
ついでだから県教委の体育保健課にも行ってみた。そこは実にあっけらかんとしていて、「まず、自分たちには何の責任もありません」といい、「五年生がレントゲンを受けるなんて何かの間違いでしょう。そんなこと考えられませんよ」と、実にのんき。私が「ちょっと電話して確かめてみてよ」というと、渋々電話して確認した後、「変わってますねえ」だとか、「止めろとか、どうしろと言う権限は県教委にはないのですよ…」と。私は県教委からそれだけのことを聞き出せば、それで 十分だった。責任は市教委だけにあり、攻めるは市教委一本だ。

集団行動で勝利する

福岡の地蔵原さんが同じような問題(こちらは法律で定められている一年生のレントゲン検診だが)で市教委に負けたのは、一人で闘ったからだ。幸いまだ、時間はある。実施されるまでに同調者を増やせばいいんだ。そこで、翌日の火曜日も休みを取って5年生の長男のクラスの連絡帳を使って片っ端から電話をした。一人に最低五分、長い人では十分もかかる。十人くらいしたところで、だんだん楽しくなってきた。すごく反応のいい人と、うさんくさそうに全く取り合ってくれない人と極端に分かれた。連絡帳に赤鉛筆で○や×がどんどん増えていく。そして、その日の内に二十数名に連絡できた。
夫婦二人でクラス全員に電話した。そして、他のクラスの知り合いにも電話したら「一緒に市教委に話に行ってもいい」という人が現れたので、レントゲン実施までに市教委交渉がもてるかもしれないと考えた。向こうに逃げられたらまずいので秘密裏に交渉の準備を進めた。相手側の確約も取れないまま、マスコミに連絡して、木曜日の夕方に電話で「明日の九時に話し合いに行きます」と告げると、係長は「課長は忙しいので十分だけですよ」と渋々応じた。
約束の金曜日、西の台小学校のお母さんに私ら夫婦とその友人の総勢8人がテーブルに着くと、赤ら顔の課長は(緊張して赤かったのかもしれませんが)終始苦虫をかみつぶしたような顔をして、答えにならない答えを繰り返すだけ。時間切れで終わってしまった。それでもこちらの勝利である。次の日の新聞の朝刊に大きく取り上げられていた。
私が淡い期待をした女性主事は「医師会の偉い先生がいうから間違いない」と、かたくなにレントゲンの必要性を主張するだけだった。やはり彼女も単なる公務員だった。

十三人の反乱で次の闘いへ

さあ、次はチラシを撒こう。金曜日の夜に職場の組合で印刷したビラ一六〇〇枚を近くの団地に入れることにした。昼間は子どもたちと妻が半分くらい撒いてくれた。残りは私と私の友人に手伝ってもらった 。その夜にもさっそく反応があった。最初は抗議の電話だった。「オマエは西の台の恥だ」とか何とか。名前も名乗らないから論外。次からは手応えのある電話だった。父親からで「校長に電話したところ変わり者の父母が二人ほどいるんですよとか、説明会を開いてほしいと言ったら、その必要はない」といわれたと。随分校長に不信感を持っている様子だった。私も校長に電話したら「あんたとはこれ以上話す気はない」とか「また言ってもしないことをビラに書かれたんではたまったもんじゃない」こんなアホな校長はこちらから相手にしないことにした。
というのも、前回の話が教組の新聞に一部始終が載ったので「校長と分会長が恥をかかされたとカンカンに怒っている」という噂を聞いたからだ。校長に私は毛嫌いされているようなのだ。
いよいよレントゲン検診の当日。私は仕事中だったが、職場に知り合いの新聞記者から電話があった。十三人が受けなかったという。もっといてもよさそうだけど、それでも一週間で十三人だ。私ら夫婦以外の十二人の父母は随分悩んだ末の行動だったのだろう。先生との仲がこじれることを気にして「子どもには受けさせたくないけど今回は受けさせる」という人もいたからだ。また、レントゲンを受けさせなかった親が、後でそのことを後悔しているという話も聞いたからだ。それほど子どもも親も学校という怪物にがんじがらめに締め付けられているのだろうか。やはりレントゲンを受けさせる制度そのものをなくさないとダメだ。学校なんて行きたいときに行くくらいがちょうどいい。みんな子どもたちにとって本当に一番大事なものを見失っている。

闘うなら徹底してたたかおう

これまで無関心だった学校に対して目覚めた父親は「子どもたちの健康を守るのは誰か」というシンポジウムを開くことにした。そのシンポジウムから一気にレントゲン廃止の運動に加速がつくことを願っている。そうさせてみせましょう。
十一月十七日に両親PTAとやらがあったので、始まる前に校門の前でシンポジウムの開催を知らせるビラを夫婦で撒いた。するとあの嫌な校長がやってきて、「学校でビラを撒くときは許可を取ってください」と言う。私は「ここは道路ですからその必要はありません」と答えると、「西の台ばっかりで運動しないで、他の小学校でもやりなさいよ。今日は明野小学校でもPTAやってるからそっちに行ってビラ撒いたらいいのに」だって。この校長、自分たちが、この問題で新聞に載ったりして恥をかいたという被害者意識しかない。教師も然りだ。何が問題かということの本質を理解しようとしていない。ましてや子どものことなど頭の片隅にもない。教育者などしょせんこんなものなんだろうと思うが、こんな学校に子どもを預けているのがとても恐ろしい。(つづく)

注)実はこれからが重要な闘いになるのだが残念ながら記録はない。そこで今回思い出しながら書くことにしたので時系列に少々不安があるが内容には自信はあります。

子どもを食い物にする大人たち。これは原発村と同じだ

これからの文章は二〇一一年に書いているので二十年前のことの記憶を呼び起こしながら書いています。しかし、かなり正確に覚えています。なぜなら、この話は私の十八番で、今一番人気の科学者小出裕章さんの講演会で、前座の私がこの話をしたら、主役よりも受けてしまって、小出さん曰く「今日は私が前座でしたね」と言われたことがあるくらい、この話はおもしろい。
さて、「子どもたちの健康を守るのは誰か」というシンポジウムを開催したのは覚えているが、いつどこで開催したかはもう覚えていない。これまで二十五年間に一〇〇回くらいは講演会などを開催しているからだ。
五年生のレントゲンが終わって、私は市教委と市長宛に公開質問状を出すことにした。なぜこのような不当なレントゲンを行っているのか。廃止する予定はないかなどの質問だったと思う。これも今では文章は見あたらない。
私は「この公開質問状は市長に直接手渡されるのですよね」と課長に確認したら、「もちろん市長まで供覧されます」と答えたのです。
私はこの五年生のレントゲンがなぜこれまで行われてきたのかという疑問に、薄々は感じていたのだが、明快な回答は持っていなかった。しかし、私の知り合いの医者でワクチン接種の問題などを長年問い続けている良心的なM医師はこういった。 「五年生のレントゲンは実はレントゲン車を一年中動かしてレントゲン技師の仕事を増やすために行われてきたのだ。春は一年生のレントゲンでレントゲン車は忙しいが、秋はレントゲン車が暇になるから、この時期に毎年五年生を受けさせたら病院が儲かるからだ。ましてやA病院の理事長は元市長の後援会長だったから。これは事件になるかもしれないぞ」と。私の友人の記者から「元市長はそのほかにも様々な疑惑があり、そのために今回は選挙に出なかった」と聞いていたからなおさらだ。
私は質問状の回答日の前に何としても現市長に直接会って聞きたかった。新しい市長はこの疑惑には全く関与していないのだから責任もなければ、レントゲンを止めることも簡単なはずだったから。私は、知り合いの市職員で市長と実に親しい秘書課の職員に会って相談した。彼は市長に「小坂と会ってほしい」と言ってくれたが、市長は「私は組織の人間だから課長が私にその文章を持ってくるまで待っている。それから小坂に会う必要があれば会おう」と言ったという。それまでの自称「革新」元市長は「公開質問書など適当に各課で処理しろ」という考えだったらしい。しかし、新しい保守系市長は市民の声を直接聞くために全ての要求などは市長まで上げるように指示していたらしいのだが、課長は自分で握っていたのだ。そこで適当に小坂をあしらって追い返そうとでも考えていたのだろう。
交渉日の朝、秘書課の職員に電話を入れたら、「朝まで市長の手元には小坂の文章は来ていないと言っていた」という。しめた。前回のメンバーで二回目の交渉のテーブルに着いた。新聞記者が数名いる前で交渉が始まった。私は最初に「この回答は市長の回答と考えていいのですね。少なくとも市長はあなた方の回答については了解しているのですよね」と問いただした。課長は「その通りですよ。市長の回答と考えて結構です」と大見得を切ったのだ。私が「今朝、市長に確認したら朝の時点ではまだ市長までこの文書は来ていないと話していたが、直前に市長に持って行って、回答の決済をもらったのですか。私がお渡ししましょうかと言ったら、市長は課長を信じているから彼が持ってくるまで待っていると話していたけど、市長がウソをついていたのかな。市長に確認してこようか」と。
課長は顔面蒼白で顔色を失っていた。私は「今すぐ市長へ持って行け」と怒鳴った。
後は正式な交渉にはならないので雑談で終わったが。
それから一月もしないうちに五年生のレントゲンは廃止されたという報道があった。しかし、そこには落ちがあった。

転んでもただでは起きないしたたかな連中

私は何かの用件で市役所に行く機会があって、課長がいたので挨拶した。「やあどう、お元気ですか」と。課長は「小坂さん、その節は随分ご迷惑をおかけしました。市長からさんざん怒られましたわ。でも、レントゲンを廃止しましたからいいでしょ。その代わり、子どもたちの小児成人病の検査のために血液検査を実施することにしました」という。これまでのレントゲン検査よりも血液検査の方が検査費用が高いらしい。転んでもただでは起きない、悪は簡単にはなくならないものだ。これら一連の事件の内容を私の付き合いのある新聞記者に全て話した。「必ずスクープになるから調べてみたら」と進めたが、あとから、「ちょっと私には荷が重すぎて残念ですが記事には出来ません」と謝りの電話があった。事件は闇に葬られて、子どもを食い物にする大人は未だに私の住む大分にはびこっているのだろうか。
(このつづきは同じブログの「反原発オヤジのハチャメチャ子育て記」をお読みください)


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by nonukes | 2012-07-19 22:07 | 反原発オヤジの子育て記 | Comments(3)

  小坂正則