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小坂正則の個人ブログ

満蒙開拓団の息子として感じる今日この頃 その1

満蒙開拓団の息子として感じる今日この頃 その1
小坂正則
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ハルピンの方正県にある満州開拓団の日本人公墓
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ここが開拓団のあった村ですハルピンから高速バスで2時間半、タクシーで1時間のタローミーチン(チンは村という意味だそうです)

私は5月の連休を利用して中華人民共和国黒竜江省の旧満州国ハルピン方正県ターロミー村へ2人の兄たちのお墓参りに行って来ました。その話はいずれこのブログにも書こうと思っていたのですが、裁判の準備で書く暇がありませんでした。
ただ、この間にも満州開拓団の映画『山本慈昭 望郷の鐘~満蒙開拓団の落日』を観たり、NHKのドキュメントなどを見て、私の家族はその犠牲者として、少なくとも私自身はこの事実を自分の胸にキチンと納めて、この問題に真正面から向き合う姿勢は取らなければならないと感じたのです。私はそう感じたからと言って、それで私には何ができるわけでもありません。既に満蒙開拓団だった両親は2人とも8年と11年前に亡くなっていますので、私の両親がたどった凄まじい困苦の歴史を正確に伝える手段を私は持っていないからです。
彼らが亡くなる前に聞き出しておけばよかったと、今になって悔やまれて仕方ありません。なぜ、書くことを常としている私が、両親から彼らの記憶をたどって、できるだけ正確に2人の個人史を書き残さなかったのだろうかと悔やまれるのです。

母と父の簡単な生涯

父、小坂茂は22歳から24歳ころに大分県三重町の農業実践大学に入学して大分県庁に就職したそうです。その前に親父は食い扶持を減らすために大地主の家に婿養子に行ったそうですが、そこでは馬車馬のようにただ働かされるだけで、こんなところで一生こき使われて俺の人生が終わるのはイヤだと思い、家を出ようと妻に相談したところ、地主の娘の妻は「家を出るならあなた1人で出て行って」と言われて、親父は生まれたばかりの娘と妻を置いて家を出て行ったそうです。そこで、実家の神社の境内で1人で勉強して難関の実践大学の受験を突破しました。
卒業後、農業指導員として県庁に入った親父の赴任地が前津江村だったそうですが、そこでは5年くらい働いたそうです。そこでの逸話を聞いたことがあります。父が東京に出張した時の帰りに静岡で列車を降りて、静岡名産のワサビを数本買って帰ったそうです。山間地のムラの農業は換金作物を作らなければ、これからの農業では食っていけないと。今でもこの地ではワサビが特産品だそうですが、親父の置き土産でしょうか。しかし、30代初めの若者は、「狭い日本で生きていくよりも俺は大陸で夢を実現させたい」と思って満蒙開拓団に応募したといいます。もちろんそれは本人の意志だったのか上司からそそのかされたのかは今では調べるすべはありません。
満州開拓団の大分県の方正県のターローミー村に赴任した親父は大勢の団員を率いる農業指導員とか副団長になり、最後は団長になったそうです。そこで、独身の親父は1人ではいけないということで、兄貴の妻の姪っ子を写真で見合いして、兄貴が私の母親を満州まで連れて行ってハルピンで結婚式を挙げました。結婚式の時に初めて親父の実物を母は見たそうです。開拓団の子どもたちが「きれいな嫁さんが来た」と言って騒いだそうです。母が亡くなった8年前の葬儀の時に参列してくれた、当時子どもだった方がこう言っていました。「マツ子さんが開拓団に来たときに美人の奥さんが来たぞとみんなで騒いだものです」と。

日本をめざした母たちの逃避行

その後戦火がどんどん悪化して、父は敗戦の2,3年前に関東軍に招集されて戦争に行きました。母は幼い子どもを2人抱えて、それでも生活には何不自由することもなかったそうです。開拓団は男は老人だけで後は女子どもだけになったそうです。そこで敗戦の8月15日を迎えて、どうするかという会議があったそうです。中には集団自決をしようという意見もあったそうですが、団長が「全員を生きて日本に返すことが私の使命だ。たった1人も無駄死にをさせるわけにはいかない」と、強い決意で話して、全員で村を後にして日本をめざして歩き出したそうです。私はハルピンの丘を列車で通って行く車中、「当時の母親と2人の子どもたちはこんな山々を越えて行ったのではないか」と思いながら車窓を眺めていました。母たち女はみんな着物などは食べもに変えてしまって、麻袋を開いてそれを身体に巻き付けて着物代わりにしていたそうです。髪も短く切って、顔も黒く塗って女と分からないようにしていたそうです。私が子どもの頃なぜそんな変装をしなければならないかと聞いても、その理由を母親は語りませんでしたが、その理由はソ連兵に見つかったら、女たちはみんなソ連兵に強姦されたからだと後から知りました。私が学生のころ学んだ理想社会のはずのレーニンの言う社会主義の、これが実態だったのです。現実とは悲しいものです。
母は使用人の中国人に優しくされたそうです。なぜなら40年前に母たちは満州の開拓団跡地を訪問したことがあります。そこで亡くなった子どもや日本人の慰霊碑を建設しました。そこでは旧満州で母親の元で働いていた方々に再会して歓迎されたそうですから、開拓団によっては軋轢に大きな差があったのかもしれません。それも関東軍によって中国人の農地を強制的に奪った所では戦後襲撃を受けたそうですから、詳しいことは分かりませんが、それでもターローミー開拓団が現地の人びとに対して悪事を働かなかったとは思ってはいません。どんなにやさしい母親でも彼らは侵略者ですし、所詮、関東軍に騙された国境防衛のための人柱だったのです。
母は満足な食べ物がなくて2歳の次男にあげる母乳が出なくなったそうです。そこで数ヶ月で2歳の次男が亡くなり、その後5歳の長男も亡くなったそうです。亡くなった子どもを土に埋めることもできないまま、髪の毛と爪を剥がして持って帰ってきました。さぞや悲しかったことでしょう。そのうち、母と一緒に歩いていた女性たちは「満人(中国人)の妻になったり、子どもを売ってお金変えて餓えをしのいだ人も多かった」と母は話してくれました。中国残留孤児が日本に帰ってくるというニュースが40年前から20年前くらいにはよくありましたが、母は食い入るようにテレビの画面を見ていました。ふとこう漏らしたことがありました。「私はあの時満人に息子2人を売っていたら今頃こうして生きて帰ってきたかもしれんかったんやなあ。でもあの時私は売り渡すことなどできなかったんよ。どっちにしてもつらいことやったなあ」と言って涙を流すのです。彼女にはどんな責任があったのでしょうか。日本人の大人として中国大陸への侵略者としての責任の一旦はあったでしょうが、少なくとも亡くなった子どもたちには何の責任もなかったことはだけは事実です。

戦争にいい戦争も悪い戦争もない。戦争は全て悪だ

私たち民衆に取って、よい戦争も悪い戦争もありません。戦争で一番に犠牲になるのは子どもたちです。そして次が弱者です。いつまで私たちは為政者に騙されれ続ければ気づくのでしょうか。悲しくなるほどのこれが現実です。でも、諦めるわけにはいきません。中国のやさしい人びとを2度と侵略などしないという決意を日本人は持たなければなりません。戦争責任を果たしているのでしょうか。私はハルピンの731記念館や918記念館を訪れて、日本の戦争責任を厳しく認識させてもらいました。そこで、これまで私は何も知らなかったんだと、私の無知ぶりを実感しました。こんなひどいことを戦前の日本人が行ったことを日本人の何人が知っているのでしょうか。学校でなぜ教えないのでしょうか。731記念館に安倍晋三首相はぜひ行ってもらいたいと、私は思いました。過去の過ちから学ばないものは過ちを再び繰り返すからです。(つづく)
by nonukes | 2016-08-22 18:30 | 小坂農園 薪ストーブ物語 | Comments(0)

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