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小坂正則の個人ブログ

今は亡き痴呆の母に教えてもらった「私の幸せ」

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今は亡き痴呆の母に教えてもらった「私の幸せ」
小坂正則

私はほとんど仕事らしいことはしていないが、人間何もしないわけにはいかないようで、何んらかの暇つぶしでもしないことには時間が経たない。まあ、暇で死んだという話しは聞いたことがないから、「暇すぎて死にそうだ」というのはきっとウソだろうが。そんなことを言うと「おまえはなんと贅沢な悩みなんだ」と怒られそうだが。
私とて仕事をしたくないわけではない。汗を流せば頭脳は明晰になり、生きてるという実感が持てるし、何よりも酒も飯もうまいし、時間があっという間に過ぎていて精神的には実に心地よい。だから、仕事があればいくらでも応じる気はあるのだが、仕事がないだけだなのだ。一応、薪の販売やペレットストーブの設置などを注文があれば行うのだが、このような品物はおいそれと売れるようなものではないから、営業に行くといっても行く当てがない。だから、こうしてじっと部屋にこもって毎日書物を読みながら、注文が来るのをただただ待っているのだ。それでも私は何らかの社会的な貢献や、社会的な意義ある行動をしたいと思う。それが生きている証だからかどうだかはよくは分からない。無意識にそんな風に思うのだ。

痴呆の母が教えてくれた「人のために生きることの大切さ」

私の叔母が特養のホームに入っていて、上げ膳据え膳で何の心配もなく生活しているのだが、私には「何の不自由もない暮らしほど自由のないものはない」と思ってしまうのだ。私の痴呆の母が生きていた頃、家で私と一緒に暮らしていて、ホームヘルパーが介護に来てくれていた。母は洗濯物をたたむ仕事など、しなくてもいいけど、させていたし、自分からしていた。それが彼女の生き甲斐の創出だったからだ。「人間は何もしなくていい」といわれるのは「早く死ね」といわれるのと同じなんだ。他者が私を必要とすると思うことが、生きることの励みになり生きなければならないという確証を自分に与えるのだろう。私には子どもがいるが、出来の悪い子ほどかわいい。私に迷惑をかける子ほど、「いい加減にしろよ」と怒りながら、私は笑っている。
そんな母が死ぬ1年半前のこと、母が入院してベッドに縛られるように寝かされてしまっては、ただ生きる屍のごとく目はうつろで生気が失われて行った。私は母が入院してからは出来るだけ面会に行っていたのだが、話すことなど何もないので、ただ黙ってパイプ椅子に座って沈黙の時間が過ぎていた。小1時間もしたら、「もうそろそろ帰ろうかな」と言うと、母は「もう帰るのか」と寂しそうに言い、「まだ帰らなくてもいいじゃないか」と目で訴えていた。そんな生活が1年半くらい続いたが、その後、枯れるように息を引き取ってしまった。私は夜遅くなったときなど、「また病院に行かなければならない」とか、忙しいときは「今日は行くのをやめよう」と、何度も思ったことか。そして実際に行かなかったことも何度もある。「早く死ねばいい」と、思ったことはさすがにないが、めんどくさいという思いは心のどこかにあったことだけは間違いないだろう。
それが突然病院に行かなくて良くなった。母が亡くなって、1週間は葬式やお寺への挨拶や職場への挨拶などであっという間に時間が過ぎたが、1週間の休んだあとに職場に出て、仕事が終わって自宅に向かう車のハンドルを握っていて、国道10号線を大分から別府に向かっていたら、いつものように無意識に別府の病院に向かう私が居た。私の家がある高崎山の信号を曲がる直前に、「今日は病院に行かなくてもいいんだ」ということが頭に浮かんで、急に左折したのだが、そのまま直進して別府の病院に行きそうになった。
そしたら何だか涙が出そうになってしまった。「もう別府の病院には行かなくてもいいんだ」と。「私は母に生かされていた」ということが初めて分かったのだ。「私が居なければ痴呆の母は1人では生きていけない」だから、「私は母を守るためにしっかりしなければならない。痴呆の母を持った子の宿命だ」と、母を恨んでいたのかもしれない。「母がもっとしっかりしていたら、いろんなところに連れて行ってあげられたのに。何で痴呆になったのか」と恨んだことさえもあった。しかし、私は母を守らなければならないという責任感が私の生きる支えとなっていたのだということが、母が死んで初めて分かったのだ。「母を支えて生きなければ」と思っていたことが、実は「母に支えられて私は生きていたのだ」ということを。人が私を頼りにしているということは、私はあなたに生かされているということなんだと。

「人のためは自分のため」

「人は人のために生きている」とは誰が言った言葉かは忘れたが、私は死んだ母や親父のために生きていくことはもうないのだから、誰かほかの人もために生きていこうと考えた。それは家族でなくてもいいのだ。私はシリアの内戦で逃げ惑う子どもたちや、母親たち、何の罪もない人びとが政治や戦争の犠牲になって逃げ惑う人々。見たこともないそんな人びとのために、ほんの小さな手助けでもすることができたら私はきっと幸せになれるだろう。そのことで、私も生きているという実感を持たせてもらおうと思ったのだ。それはシリアでなくてもいい。福島から逃げ出したくても様々な事情で逃げ出せない母子でもいい。誰のためでもいい。人のために役にたたさせてもらうことが結局は私が生きていることの実感となるのだから、こんなありがたいことはない。「人のためは自分のため」という私の幸せを痴呆の母に私は教えられたのだ。
そんな母は本当に善人だった。私たち子どものために一生懸命に生きて、父に最後まで尽くした。そして、他人のためにも精一杯に世話を尽くして死んでいった。しかし、それが結局は彼女の幸せだったのだろう。もっと私は母へ生前に親孝行をしておけば良かったが、死んでしまってはもうどうしようもない。人のために生きるという幸せの実感を、私は大いに味わせていただこうと思っている。


母の葬儀の挨拶   2009/02/13

本日はお忙し中、亡き母、小坂 マツ子の通夜にご弔問いただきまして、誠にありがとうございました。生前母とお付き合いしていただいた方やお世話になった大勢の皆様にご弔問頂いて故人もさぞかし感謝している事と思います。

さて、母は1年半前から入院をしていましたが、昨日急に様態が悪化し、12日の10時30分に帰らぬ人となってしましました。当年89歳でした。
 母は10年ほど前から認知症の症状が表れ、自宅でホームヘルパーさんの介護を受けながら父と2人で暮らしておりました。4年前に親父が先立ちまして、その後は私と二人で暮らしておりました。その間、ヘルパーさんや○○病院の皆さんなど大勢の方のお世話になりましたことを、改めてお礼申し上げます。

世間では、戦後はとっくに終わったような風潮で、戦争の苦しみは忘れ去れれていますが、私の母にとっては戦争はまだ終わっていません。
母は20歳そこそこで満州の開拓団の農業指導員として働いていた父と写真による見合いにより父に嫁いできました。
戦争が激しくなって、父は戦争に行ってしまい、昭和21年8月15日から、母は3歳の長男と1歳の次男を抱えて、開拓団に残された年老いた男性と女性や子どもたちの集団は中国大陸をそれこそさまよいながら、日本をめざしたそうです。その苦労は言葉には言い表せないほどのものだったと思います。日本へ帰国する間に多くの方が餓えや病気で亡くなり、女性や子どもたちの多くは中国に残り、中国残留日本人や孤児となったそうです。母は最後まで2人の子どもを抱えて帰ろうとしましたが、途中で栄養失調や病気で二人とも亡くしてしまいました。中国残留孤児のニュースに、母は我が子が帰ってくるかのように食い入るようにテレビの画面を見入っていました。
昨日、母と一緒に満州から引き上げてこられた方に弔辞を読んでいただきたいと思いまして多くの方に連絡を取ったのですが、皆さんお亡くなりになったかご高齢で葬儀にも出ることが不可能な方ばかりでした。このようにして母たちの歴史はロウソクの火が1本1本消えるように、戦争の苦しみや悲しい想い出が消えていくのかと思います。
母は戦後、満州から着の身着のままで引き上げて来まして、親父と現在の地で、私たち子どもを育てるために、それこそ一生懸命に夜遅くまで働きどうしでした。歳を取ってやっとこれから楽になるという時期に認知症と足腰を悪くして、自宅に籠もったままでした。母は何の趣味もなく、旅行にもほとんど行くこともない日々を過ごして来ました。
母は人一倍優しい人でした。私たち子どもや周りの方々へも暖かい思いやりに満ちた母でした。母の優しさをいつまでも忘れることのないように、残された私たちはこれからも精一杯、生きて行きたいと思っております。
私は満足な親孝行も出来ないまま、母を見送ることになってしまいました。
今となっては、あれもしてやればよかった、これもしてやればよかったと悔やまれますが、苦しむこともなく、安らかな美しい顔で眠るように息を引き取ったとことがせめてもの救いかと思います。
これからは、あの世で、親父や満州で幼くして亡くした息子たちや母親の両親などと再会して楽しく安らかに過ごしてくれることだけを願っております。
by nonukes | 2013-09-25 22:24 | 小坂農園 薪ストーブ物語 | Comments(0)

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