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小坂正則の個人ブログ

水俣市で水俣病の歴史や関連施設などを案内してもらいました

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「水俣病は終わっていない」ということを改めて私は感じました

水俣市で講演した翌日の今日は、旧知の友人である永野隆文さんに水俣市内を案内していただきました。まずはチッソ水俣工場の百間排水口(現在は塞がれている)を見学して、埋め立てられた水俣湾(今は分譲地や公園などになっている)を見て回りました。海は美しくきれいでした。そして周辺の漁村の方々の水俣病の発見から、その後の様子など詳しく話していただいた。胎児性水俣病の坂本しのぶさん(ユージンスミスさんの写真などで有名な方)は私と同じ年齢だと教えてくれた。1972年から73年、私が高校生から大学生になったころ、水俣病患者の方々はチッソ本社などへの座り込みや株主総会へ「怨」のノボリを立てて闘っていた。永野さんは患者さんの多くの方と今でも親しくしているらしい。彼の青春は水俣病と共にあったからだ。

私たちは水俣を忘れてはならない。だって水俣病は終わってはいないのだから

患者団体などの反対の声を無視して、今年の7月31日で国は水俣病の申請受付を一方的に終了させてしまった。その最終申請には多くの方々が届け出たという。なぜ40年以上も経って、今頃になって申請しなければならなかったのか。その理由は実に悲し。今まで差別を恐れて「水俣病」ではないかという声を上げられなかった人びとがいるという。また地域で「水俣病」を口に出してはならないという雰囲気があったという。そのほかにも、結婚差別からあらゆる差別が未だに水俣周辺には息づいているというのだ。この重たい事実に私は虚無感に襲われてしまった。水俣病と認定された患者さんの苦しい生活もさることながら、40年以上も「水俣病」の認定をされずに生きてきた方々の気持ちを察してみたことがあっただろうか。「私たち日本人には「水俣病」を決して忘れてはならない」と私は改めて思った。

「水俣病」を歴史から消し去ろうとする環境省と横光環境副大臣の犯罪

環境省が7月31日で水俣病申請を打ち切ったことの非道さが改めて永野さんのお話から分かった。魚の行商さんから買って水俣の魚を食べた山間部の方々にもたくさんの水俣病患者の疑いのある方がいる。そんな方々は住居地域で認定されないという。それもおかしいことだが、自分が水俣病であることを意識していない方もいまだに多いという。そして、「水俣病がうつる」という差別的な行動をとる人間が全国にいるという。水俣のお菓子を食べないという差別もいたるところであったという。
しかし、環境省は水俣病を過去の歴史として早く消し去ることが「水俣病の差別をなくす」ことだとでも言いたいがごとくに申請受付を打ち切った。それは一見まともなように思えるかもしれない。
でも、決してそうではない。差別や偏見を人びとの前から隠しても差別がなくなることはない。差別は徹底的に、その不当性を差別する者自らが学ぶ中からしかなくならない。
それにしても、あの横光某環境副大臣の発言は恥ずかしい。「水俣病不知火患者会」などが実施している集団検診について、横光克彦環境副大臣が「(救済策の申請締め切り後は)慎んでもらいたい」「他の団体に迷惑」などと発言したこと。いかにあの御仁が環境副大臣などにふさわしくないかを自ら暴露している。

フクシマでは水俣と同じことが繰り広げられている

水俣の相思社発行の「ごんずい」より抜粋。~相思社の大きな目標は「水俣病を二度と起こさない社会を作る」ということであった。残念ながら、その目標は達成できないどころか、状況は加速度的に悪化し、チェルノブイリ事故を遙かに超える事故を日本に招いてしまった。(略)私にとって、いまこそ実践のとき。水俣病と原発事故。青春時代に打ちのめされた返礼をここ相思社からしたいと思っている。(抜粋終わり)
水俣と同じことがフクシマで繰り広げられようとしている。罪のない人びとはもがき苦しみ、いわれのない差別は広がり、国も電力会社も誰ひとりとして責任を取ろうとしない。水俣を繰り返さないためには私に何が出来るのだろうか。いま私に出来ることは「水俣をフクシマを決して他人ごとではない」という意識を持ち続けること。そして最も大切なことは人びとの記憶から水俣をフクシマを忘れ去らせないことだと思う。

写真説明
①埋め立てられた水俣湾を望む
②水俣を案内してくれた友人の永野隆文さん
③慰霊碑の碑の横に置かれた魚のオブジェ
④水俣を見学する方々
⑤チッソ水俣工場の百間排水口(ここから有機水銀入りの排水が垂れ流されていた)
⑥砂田明さんのご自宅のそばにある乙女塚にて
⑦砂田明さんの奥様とご一緒に記念撮影させていただきました
⑧相思社の展示から原田正純さんの熊本日日新聞の記事
⑨相思社の展示品
⑩みなまた石けん工場
⑪石けん工場内部
Commented by 村さん at 2012-11-01 14:48 x
初めまして。
昨日、水俣病慰霊碑に行きまして、ノートが置いてあります傍らに寄贈理由「ここを訪れた方々やお供え物を上げる方々が一筆残せる様になど」を書いて、B5カードケースに入れて来ました。

こちらには花束や折り鶴等々色々な物がお供えして有ります。嬉しいです。

たまにお供え物が放置ぎみになっていたので、慰霊碑管理者との連絡帳代わりです。
また県の環境センターの方に会いましたら「市役所の方に問い合わせたら、水俣病資料館が記念碑を管轄してますとの事で、見回っては居ますが、なかなか回りきれないので…。これからは巡回の回数を増やしますね」との事でした。

このノート、撤去されませんようにと願うばかりです。
by nonukes | 2012-08-20 22:09 | その他 | Comments(1)

  小坂正則

by nonukes